色眼鏡や偏見、相手の本当の気持ちや考えを理解せずに、自分の偏った価値観で判断するのは確かに良くないことだ。そういう判断を避けるために、いろんな人と関わり多くの事を学ぶのだろう。でも、そんな風に学んだ過程のなかで作られた色眼鏡や直感を使うのは、本当にいけないことなのだろうか。SNSが広がり簡単にだれかと関われてしまう今の社会に対しては特に、「相手の事を知らないと」とか「話してみれば」と関わることの重要性を訴え、非があるのは自分と決めつけて相手を大切にしすぎるのは、危険が伴うように思う。

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私の高校時代は、女子校で勉強に明け暮れた3年間だった。周りに異性のいない環境は私にとっては幸せなものだったし、女の子としての競争のない世界でのびのびと過ごせたと思う。お互いに異性としての変化が大きい時期の共学がどういう感じなのかはわからないけど、放課後にこっそり持ち込んだ道具で髪を巻いてメイクをしてデートに行ったり、誰と誰が付き合っているという話で盛り上がったり、そういう環境へは一方的な憧れがあるだけだった。

そして、キラキラと無縁の世界だった女子校から共学の大学に進学した私には、女の子としてのレベルに雲泥の差があったのも、残念ながら事実だ。どうにかその差を埋めようと躍起になっていた私は、とにかくそういうことに詳しそうな女の子を探していた。

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どこにでも、外見が華やかな子はいるもので、私の憧れるキラキラの女の子はすぐに見つけられたし、その子のつながりで仲良くなれたサークルやゼミの先輩など、大学生活の助言や教授の情報をくれる人がいたことは本当に助かった。そして、大学1年で何もわからない時期に、キラキラのおしゃれと先輩がたからの情報や試験の過去問は、同級生の間で私を人気者にしてくれた。

でも、同性でいろいろと人気者になれるよう協力をしてくれた先輩方に対して、初めに感じた違和感やちょっとの嫌悪がなくなることはなかった。最初の時は、私が慣れていないだけだと言い聞かせていたし、なれてからも行きすぎた言動やお金の使い方についていけないと感じることがあるたびに、憧れに必要なことだと言い聞かせることが増えていた。

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偏見は良くないという思いと良くしてくれる憧れの先輩がいるという状況、そして私もそういう世界の人になりたいという思いが、見て見ぬふりを続けさせていた。そんな状況が1年くらい過ぎた時、いろいろお世話になっていると言い聞かせていた先輩から、パパ活に誘われた。その時に初めて、最初に感じた違和感やこれまで自分に言い聞かせていたいろんなことがつながった気がした。

それぞれの価値観はあるし、あの先輩たちを否定するつもりはない。でも、自分を守るために必要な直感みたいなものと色眼鏡の区別はすごく曖昧だと思う。そして、その直感を否定することや否定する材料をちゃんと準備して傷つけようとする人も確かに存在するのだ。過度に相手を否定したり傷つけるような言動をすることを良しとするわけでもないけれど、自分を守るために否定することが正しい時もある。自分の価値観や考え、そんなものたちをしっかり意識して、世の中が何を望んでいるのかどこまでなら問題ないのか考えたうえで、色眼鏡なのか正しい直感なのか、見極められる大人になっていきたい。