「怒り」を、いつか私も、先人たちのように世の中を変えるパワーに

最近、怒りっぽくなった。些細なことでイライラしてしまうし、怒ってしまう。怒りんぼうの自分が嫌だと感じる一方で、怒れるようになってきたのは良いことだとも思う。
長らく私は自分の感情などあってないような場所に身を置いてきた。そこから離れて、怒るという選択肢ができた。そして、やっと怒れるようになってきた。私にはそう思える。
問題なのは、今まで抑圧されてきた分を取り戻すかのように、過剰に怒ってしまうことだ。本当に過剰という表現が適切だと思う。ちょっとしたことで、そんなにというほど怒ってしまうのだ。
怒る前段階として、そもそもイライラしている。毎日が生理前かのようにイライラしがちになった。それにちょっとしたことが一押しとなって、怒りに変わるのだ。体調の不安定さ、それによる日々の生活の余裕のなさがイライラに繋がっているようだ。
そしてなんとなく、今まで怒るという選択肢がなかった自分のためにも、より怒っているように思える。抑圧から解放された一種の通過儀礼のようなものだろうか。
それはそうとして、怒りをぶつけられる側はたまったもんじゃない。どうにかせねばとアンガーマネジメントの本を手に取った。開くとハラスメント行為をどう受け流すかという事例ばかり載っていた。
これらはアンガーマネジメントの問題ではなく、こういう扱いをされたらどこへ相談へ行くかのハラスメントの問題で、受け流している場合じゃない。私は怒って本を閉じた。
こうしてアンガーマネジメントは会得出来なかった。アンガーマネジメントという技法があるくらい、怒りという感情は扱い難いものなのだろう。扱いを間違えれば加害にもなり得る。怒りにはそのくらいパワーがあるということでもある。
なぜ女性には投票権がないのか、という怒りをパワーにして動いた先人たちがいた。おかげで私は選挙の時に投票ができる。かつては当たり前じゃなかった、先人たちのおかげだと噛みしめながら、いつも投票している。
私が就職した時、「昔、すれ違いざまに女性職員の尻を触るのはいけませんってセクハラについてのDVDが流されたんだよ」と先輩に言われた。それに対して私は「犯罪じゃないですか」と言ってしまい、先輩を「そうだよね、犯罪だよね……」と考え込ませてしまったことがある。
犯罪行為が犯罪になったのも、セクハラがセクハラになったのも、他人の体を勝手に触る、ましてやプライベートゾーンなんてもってのほかだと、怒ってくれた人たちがいたからこそだ。その人たちがいなかったら、私は働きたいだけなのに、何故かお尻を触られる羽目になっていたかもしれない。
そう考えると、怒るということは別に悪いことではない。時と場合、方法などは選ぶけれども。
怒ることに罪悪感があるのは、扱いが難しく加害になり得るからということもあるだろう。しかしそれ以上に、怒りは世の中を動かしたり、変えたりするエネルギーになるから、怒られては困る。だからこそ怒ることは悪いことだという認識にさせ、怒ることを抑止させているように思える。
SNSを見ると怒りに溢れている。何故怒っているのか分からない理不尽な怒りもあれば、理不尽な扱いに対する怒りもある。女性に対する理不尽な扱いへの怒りは本人たちだけではなく、かつて同じような扱いをされた女性なども一丸となり、声を上げている。
その理不尽は私たちの代で終わりにさせんとするそのムーブメントは、素晴らしいと思う。手法が異なるだけで、こうやって団結して女性たちは権利を獲得していったのだろう。
私は今、自分の怒りに翻弄され持て余している。いずれ、先人たちのように世の中のためになるような使い方が出来るようになりたい。
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