親や職場から逃げてきた人生。逃げた先で「やりたいこと」は?

虐待をしていた親から逃げて、ブラックな職場から逃げて、私はどこに、どこまで逃げるのだろう。逃げて、逃げて、最終的に、生きることからも逃げるのではないかという考えが、常々頭の片隅にある。
いろんな理不尽に対して、逃げて良いと言う人は増え、世間一般的な考えになってきた。
でも、逃げた先を教えてくれる人はいない。逃げてどうなるのか、どこに逃げるのか。それは逃げる人が決めることなのかもしれないけれど、逃げる先さえ明示せず、逃げて良いと言うのは、いささか無責任に思えてしまう。
逃げるという言葉は、マイナスなイメージが強いのかもしれない。
よくゲームやマンガなどで「今日の所はこのくらいにしておいてやる!」というお決まりの捨て台詞がある。そうして敵などは撤退するのだが、逃げるにしてもこのくらいのマインドが良いのかもしれない。
そう、逃げることは撤退でもある。撤退は、勇気ある撤退など、讃えられることもある。格闘の末、潮目を読んで最適な道を選ぶ。それが退くことだった場合、撤退と言われがちだ。
撤退という言葉で気付きを得たが、ある程度、格闘したり、向き合ったり、耐えたりしないと、逃げることにすらならない。逃げるということは、逃げると言っても良いほど、何かに向き合ったり、格闘したり、耐えたりした我慢の証でもあるのだろう。
そんな言葉遊びのような屁理屈や精神論を述べて現実逃避をしている場合ではない。
私は親から逃げて1人で暮らして、職場から逃げて無職になった。親から逃げ続けるためには自活しなければならない。すなわち働かねばならない。必ずしも働かねばならないということはないのだが、働くことを諦めるにはまだ私は若すぎる。
とはいえ急には働けない。リハビリとして昨年秋から、定期的に決められた時間に決められた内容をこなすということをしている。週1回半日から徐々に時間や日数を増やしている。着々と、と言えば聞こえは良いが、牛歩のような進み具合に我ながらやきもきしてしまう。
やきもきしている私に届け物が来た。偶然見かけた雑誌の懸賞に当たったようだ。届いたのは、人生でしたい100のこと、バケットリストを書くノートだった。
今年やこれから数年とかではなく、人生でというところがミソだろう。平均寿命で考えると、あと50年ほどある人生で何をしたいか。ここに書くほどでもないことは、さっさとやりなはれということだし、絵空事も50年あれば実現するかもしれない。
やりたいことを考えるのは苦手だ。やらなければならないことは沢山あるし、浮かびやすい。やりたいことは考えても考えても浮かばず、何もしたくないと思ってしまう。生きるのに疲れているのだろう。
何もしたくないのは、ある意味本音であるし、本音でもない。生育環境の影響か、自分の本当の本当の本音をアウトプットしようとすると、言葉よりも涙が溢れてきてしまう。
身近で簡単な所から考えてみよう。喫緊の課題として、ZINEを出したい。そして即売会に出てみたい。どこかの書店で委託販売みたいなこともやってみたい。次は生活圏外の即売会にも行きたいし、出てみたい。そして文章を書くことで、お金がもらえるようにもなれたら本望だ。世間知らずの絵空事かもしれないが。
そして、そして……。もし、もしも文筆稼業になれたら、全国の武将隊(歴史上の人物に扮し、観光PRやおもてなしを行う集団)に取材をして回り、1冊の本にまとめたい。私が書くことに目覚めたのは武将隊のおかげなので、恩返しがしたい。
なんだ、意外と出てくるじゃん。数はまだまだ100に及ばないけれど。
何もしたくないという欲求は常に隣にあるし、なんで、どうしてはなかなか説明がつかない。でも、私はまだ大丈夫な気がしてきた。今の私はとにかく書きたいようだ。今に限らず、日記なり日誌なり、ずっと書いて生きてきた。この人生がこれからどこへ向かうか分からないけれど、私にはペンがあれば、大丈夫な気がする。
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