私が経験してきた「女子的コミュニケーション」の中に、「お互いを『可愛い』と褒め合う」というものがある。
「絶対心にもないこと言ってるだけじゃん」「どうせ本音じゃドロドロしてるんでしょ?」……まあ、そう言わずに。掛けてもらった「可愛い」に救われた私の話を、ここに少しだけ書かせてほしい。

人と話す時に「浮いてないかな」と考える習慣がついた

物心ついたときからずっと、不器用で不注意だった。 
幼稚園で描いた絵は「一番何描いてるか分からない」と評されたし、小学校に入ってからはクラスの誰よりも行動が遅かった。何もしなくてもいつの間にか物はなくなるし、プリントがぐちゃぐちゃになった状態で発見されたりする。
「最初は優等生に見えるんだけど、ね」という言葉の後に続くのは、きっと“大幅減点後”の評価だろう。

これで人当たりが良ければまだマシだったかもしれないが、人間関係まで不器用だったから救いようがない。
休み時間は談笑する同級生達を横目に図書室へと走り、いじめられたときは一人で泣いた。人と話す時に「自分は上手く振る舞えてるかな、浮いてないかな」と考える習慣は、ここ10年ほど変わっていない。

ダメな人間なのは自分が一番良く知っていた

「ちゃんとしている」両親にとって、要領の悪い娘は理解不能な存在だったらしい。「人に迷惑をかけないように」と育てたはずなのに、毎日のようにトラブルを起こして帰ってくる子供は悩みの種だっただろう。
「なんで段取りを立てて動けないの?」「傘忘れてくるのもう何回目?」「前にも言ったよね?わざとなの?」……
「ごめんなさい」以外に返す言葉は持ち合わせていなかった。それを言っても「謝って済むと思ってるの?」と怒鳴られるのは分かっていたけど。

同級生に馬鹿にされたり、親や教師に責められたりしなくたって、ダメな人間なのは自分が一番良く知っていた。
「好きでやってるわけじゃない」なんて言っても迷惑をかけていることには変わりないし、できる限り頑張ってやっと人並みより少し下なのは十分理解していた。失敗を気づかれないうちにリカバーする小細工だけ上手くなっても、誰かに見咎められるのが怖いのはずっと変わらない。

友人の褒め言葉は、温かいココアみたいに心を溶かしてくれた

そんな風に常に緊張していた日々に、風穴を開けてくれたのは友人たちだった。 
高校から始めた趣味で出会った、学校も性格もバラバラな3人。いつの間にか意気投合して、喜びも悩みも共有する四人組になった。
「学校の調理実習でケーキ作るんだけど、失敗しそう」ってTwitterに書いたら、「え、可愛い……ケーキ作るのに苦労するひおとか、めちゃくちゃ萌えだけど?」と返信してくれたあの日。
いや、萌える要素なんて何一つもないでしょ、と思いながらも、私はちょっとだけ嬉しかった。その「可愛い」が、どうやら本心らしいって分かったから。

チーズ入りのドリアと格闘する私を見ても、プリクラで一人だけ上手く指ハートが作れなくても、3人の「可愛い」は止まらない。自分のダメで嫌いで、できたらなくしたいと思っていた部分がこんなにポジティブに評価されるなんて。久しぶりに浴びた褒め言葉は、温かいココアみたいに心を溶かしてくれた。

要領の悪さを自覚して十数年経ち、私は大学生になった。
もうプレパラートを割って慌てることはないし、人間関係も多少上手くなったと思う。
でも今も書類の整理は苦手で、人と会った後はしょっちゅう脳内反省会をしている。
根本的に良くなったわけじゃないし、器用に生きたいと思うことはある。でも、不器用な自分を大事に思ってくれる人がいる事だって、それはそれで幸せなことなんじゃないかと思う。