「にへへ」と笑う忘れたくない人。全部忘れずに思い出にとっておこう

この世界で、文章に残した方がいいことをあげるとするならば、忘れたくない好きだった人のことだろう。家族でも、恋人でも、親友でも、なんでもないあの人でも。忘れたくないのに何となくしか思い出せなくなるのは、そのときの自分の気持ちや温度をとっておけないからだ。
あまりの肌寒さに、私は家を半袖で出たことを後悔する。昨日はあんなに暖かかったのに、と軽く世界に裏切られた気持ちで、周囲を見渡すとみんな長袖だった。なんだ、と私はさらに裏切られた気持ちになる。無論、天気予報を見ない私が悪いのだが。私は幾つになってもなぜかよく季節外れの格好をしてしまうし、雨の日も傘を持ってはいない。ため息をついて、足を早める。
きっとあの人は今頃寒さなんて感じていないだろう。彼はいつも顔色がよく、白く弾力のあるふっくらした肌をしていた。よくたべ、よく笑う人だった。私はあの人に出会ってから、ふっくらとした肌の美しさを知ったのだ。溢れ出る生命を感じられるのはきっとあの類の肌からだけだろうと私はそれ以来おもっている。
それ以外に、彼について思い出すことといえば、もうひとつ大きな特徴がある。大抵、男の人というのは少し澄まして格好つけたように笑うものだと思うが、(これまでの人はみんなそうだった)彼はめずらしくあほみたいに頬をゆるめて私に笑いかけるのだった。
これ以上ないくらいに幸せそうに、にへへ、という感じで。その笑顔に私はいつもつられて頬を緩めた。きっと私は相当だらしない顔をしていたにちがいない。
あんなふうにだらしなく人にむかって笑うことはこの先恐らくないだろう。あのときだけ、私は世界に対してすこし優しくなれたのに。いまではすっかりこの世界から距離を置いてしまっている。
だって、優しさとは弱さかもしれない、と私は思う。自分の気持ちを他に分けることだから。自分の気持ちを見せることだから。はっきり言うと彼は優しかった。それはもう優しすぎるくらいに。私は優しい人をみると不安になる。優しくない世界にいつか傷つけられるのではないかと。でも事実、そんな優しさをもちあわせていた彼を心から尊敬もしたし憧れていた。彼といれば私もきっと優しくなれると思ったりもした。
気がついたら半袖でも寒くないくらいには体が温まっていた。私は歩くのが苦でないたちで、職場までの15分くらいの道のりもこんなことを考えていたらすぐに過ぎてしまうのだ。
彼との恋は突然終わってしまった。私は結局世界に優しくなれずにいる。この先もこうして世界と距離を置いて生きていくのだろうか。いや、優しくなれなくてもいいから、大事なものを大切にして生きていきたいとおもう。
綺麗なもの、汚いもの、心が踊るもの、そうでないもの、思い出したら嬉しくなるもの、切なくなるもの。彼のことも、忘れずに全部思い出としてとっておこう。たまに取り出して、キラキラとした気持ちに浸らせて欲しいと思うのは自分勝手だろうか。好きだった人のことを忘れたくないとおもうのは、きっと、悪いことじゃないはず。
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