休職して目覚めた「食」。味覚は自分の調子のバロメーター

食べることって生きることだ。
生きることって食べることだ。
わたしは本来、食べられたらそれでいい、でも嫌いなものは食べない、初めて食べるものは怖いからいつも同じものを食べる。そんな食生活を送っていた。
仕事を適応障害で休職し、なんにもやることがなくなってしまった後で、急に目覚めたのが「食」だった。
味覚が変わったのか、辛いものや甘いものが分け隔てなく食べられるようになり、某ハンバーガーチェーン店のてりやきバーガーを食べて感動。カップ麺は滅多に食べないわたしが、思い立ってペヤングを食べてみたら美味しすぎて感動。ペペロンチーノを作ってもらって食べてみたら、世の中にこんなに美味しいパスタがあったのか!とこれまた感動。
餃子、肉まん、焼売も苦手だったのに美味しく感じるようになって、食べる楽しみが増えた。
それからは、わたしが生きる理由は、美味しいご飯を食べたいからだ、と色々なものを作っては食べるようになっていき、ぷくぷくまるまると、わがままな身体を手に入れてしまうのだが。それでもいまも、美味しいものには、美味しそうなものにも、目がない。
わたしにとって、食べることは希望だった。生きていくための希望だった。
時折精神的不調が重なると、味覚がおかしくなることがある。味がしない、美味しくない、涙があふれてくる。生きている心地がしなくて、悲しくなる。
そういう時はしっかり休んで、好きなものを食べる。少しでも味を感じられるようになれたら、もう大丈夫だと安心する。
食べることは、食べられることは、自分の調子のバロメーターにもなるのだろうと思っている。
食べることは生きること。
好きなだけ好きなように食べるのは、たまにだったらいいと思う。でもそればかり続けていれば、内臓に問題も出てくるし、ぷくぷくまるまるなわがままボディーの自分が出来上がってしまう。
いまはものすごく悔しくなっている。だって昔のわたしは、体型も悪くはなくて、背が高く、すらっとしていた。それがもうベイマックスのような身体になってしまったのだから、食べた量と同じくらい動かなければならなかったのだろう。
だけど、食べてなかったらいま、生きていないとも思う。落ち込んで、食べ物を全部吐いていたとき。なにも美味しくないと思っていたとき。
その頃のままだとこうやって、過去を振り返りながらエッセイを書くこともなかったのだろうと思ったりもする。そうやってひとつひとつ過去を乗り越える手段として、エッセイを書いているところがある。
生きることは食べること。
いまわたしは生活指導を受けながらダイエット中の身分である。好きなものを好きなだけ食べられなくて、悲しい気持ちを抱えているけれど、ここを乗り越えて数値を戻したら、好きなものを食べられるはず、そう信じて頑張っている(もちろんだからといって食べ過ぎはやっぱり良くないから、限度というものを理解しなくてはならないとは思う)。
「いつかお腹いっぱい、飽きるくらいに、ハンバーガーとペヤングとペペロンチーノと餃子と豚骨ラーメンと焼肉が食べられますように」
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