傷つかぬよう、叶わぬ恋を「推し」という言葉で片付けようとした罪

遠い昔、その昔、心を奪われた人がいた。
少し経った頃、奪われた当初にはなかったある言葉が、ますますわたしを深みに落としていくのであった。
若かったわたしは、学校でとても目立つ子を好きになった。私が、少女漫画のヒロインではなく、気怠げな男の子が最初に振る相手で、へのへのもへじで描かれるレベルの顔だと気が付けなかった頃の話である。
少女漫画にハマっていた当時のわたしは、「もしかしたら叶うかもしれないし、少なくともわたしは叶うと思わないといけない」となる。
しかしながら、だんだんと「へのへのもへじ」になるのも大変だと気付き始める。
夢を見させる言葉を頼りに暴れ回るわたしの心は、相手の心に伝わってしまい、周囲の人の目を好奇の色にさせていく。
姿を見れるだけで幸せだった自分を忘れ、たまたま喋れた幸せを噛み締めた自分も思い出せず、すれ違いざまに見つけて絡んでくれた5分に幸福を覚えた自分さえも消えた。
どれもこれもが、「もしかしたら願いが叶うかもしれない」という強欲スイッチボタンを生み出す根拠に変わった。
「独りよがりな好意はただの悪意」と学ぶ時間となった。色褪せた青が彩った春だったと今なら語れる。
少女漫画と違ったのは、別の誰かに自分が好かれなかったということ。少女漫画と同じだったのは、こびりついてしまった思いがその後もずっと剥がれなかったこと。
色褪せた青い春から少し経った頃、世の中ではある言葉が流布されていた。
「推し」である。
普通名詞であり、呼称であり、目的語であり、動詞であり、感情であり、「関係値」を示す万能な言葉。時間をかけて、多くのメディアや広告によって、次第に都合の良い魔法の言葉になっていく。
その言葉が出てきたタイミングで、先ほどの目立つ子と同じ空間で過ごすことになり、好きだった過去もだんだんと忘れていった。
「やっぱり1番かっこいい!最高の推し!」と言いながら、過去と変わらずに観察を重ねた。どうこうなることがないとわかりきっていたからこそ、「推し」にして無邪気にはしゃいだ。
ある時、私の過去を全く知らないはずの人が「本当に推しなの?好きなんじゃない?」と、真面目に聞いてきた。
その質問は、私の中の何かを崩した。
その目立つ子を好きになるより先に、テレビに映るアイドルを好きになっていたから、アイドルへの気持ちとリアル世界での恋愛感情の違いを自覚していた、はず、だった。
自分の気持ちを片付けるために「推し」という耳心地のいい言葉を割り当て、大事にしていた「推し」という言葉を隠れ蓑にしてしまった。なにより、叶わない恋を諦められない自分を認めていなかった。
くすぶった青が積み重なった春、多くの人の手が届かない存在が推しだと痛感した。「私」の手が届かないだけで、「わたし」と同じ空間にいた別の子の手なら届く存在を「推し」とたとえた自分に、浅はかさや未熟さを感じた。
自分にとって大事な部分である「オタク」という要素を、傷つくのを避けるために献上してしまった。根底にある「推し」という言葉を、「傷がない青春」へたどり着くための通行料にしてしまったことへの後悔が今もある。
心をときめかせて思考までも埋め尽くしてくれる人に、私は出会えるのだろうかと頭を悩ませている。
出会えない場合の未来も愛す準備もしている私は、あの時の「わたし」から抜け出せていないのだろうと、思わざるを得ないのであった。
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