食べることで誰かと繋がる。食べることは人の「生き方」を教えてくれる

私はもともと、食にあまり興味がない。好きな食べ物はある。ただ、偏食がひどい。
私は昔から、ラーメンと辛いものが好きだ。狂ったように食べる。もちろん体に悪いことも重々承知だ。母親からも、「食べすぎるな、病気になる」と幾度となく注意されている。だけど、食べることをやめられない。
私は一度メンタルを壊していることもあり、食の好みとメンタルの関係性をネットで調べた。
結論からいうと、私は刺激を欲しているのだと思う。辛党の人、特に激辛料理ばかりを好んで食べているのは、刺激を欲しているからだということらしい。ネットの情報なので信憑性は微妙だが、わざわざ体に悪いものを欲しているということは、軽い自傷行為なのかもしれない。
最近になってようやく、「自分を大切にする」ということに本気でコミットするようになった。何かを選択する時、「この選択は自分を大切にできているか」と考える。
前は「自分を大切にする」ということがいまいちわからなかったが、そう考えると自然とベターな選択肢が出てくるようになった。
食事も、そのひとつだ。辛いものは週何度まで、と決めたりするようになった。「昨日は何食べたから今日はこれにしよう」「2日連続でこれを食べるのはやめよう」と考えるようになった。
年齢が30近くなったこともあると思う。栄養バランスとか、体力について考えるようになった。
私はもともと低血圧で、体力がない。午前中はとてもしんどい。対策として朝食後に塩を舐めるようにしてみたり、母親の血圧計で血圧を測るようになった。
食事は、自分の人生と直結していると思った。メンタルを崩している時、食事がまるで喉を通らなかったから。
食べるという行為は、ただお腹を満たすだけじゃない。誰かと囲む食卓の雰囲気。心の調子がとても悪くて、頑張っても何も口にできない日の虚しさ、そういう全部が「生きる」に繋がってる。
食事がとれない時、体だけじゃなく心もどこか痩せ細っている感じがして、何かを食べられてようやく、ちゃんと「自分がここにいる」と思える瞬間がある。
逆に、食べることが苦しくなる時もある。食欲がなくなるってことは、生きる気力が薄くなってるサインでもある。そんなときは「ちゃんと食べなきゃ!」ではなく、「食事を通して、本来の自分に戻れるようになるか」を考えたい。ただの栄養じゃなくて、自分を思い出させてくれるようなもの。
また、食べることは、自分だけでなく他人と繋がる手段でもある。一緒に食事をとるだけで、相手とその場を共有し、相手の「生きる瞬間」がわかるといっても過言ではない。
食べる速度やその場の空気、それらのものが全て、その人の「生き方」を教えてくれている気がするのだ。
食べるという行為は、生きることそのもので、かつ、他者を知ることでもある。
したがって、どんなにメンタルがやられてしんどい時でも、「何かを食べたい」と少しでも思えたなら、それはまだ生きたいって気持ちが、心のどこかに残っているのだと思っている。
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