狡猾な生き物に見えた彼らは「言われたことをやっている」だけだった

私は、人の意図がうまく汲み取れない。
子供のころは特にひどくて、ちゃんと指示を聞いているのに的外れなことを真面目にやってしまうような、ちょっと鈍臭い子だった。
たとえば、クラスメイトがやりたくない用事を、私にやり方を教える体で押し付けてきたとき。すぐには気づけなくて「教えてくれてありがとう」なんて間抜けな返しをした記憶がある。友人に指摘されて、はじめて悪意があったんだと知った。
あるいは、先生が「次の時間はいつものようにしてね」なんて説明を省いて指示をすると、何が必要で、どこで何をすればいいのか、全然わからなくなってしまった。「いつも」がいつのことをどこまで指しているのか、わからないのだ。
自分を取り巻く環境に関心を持って、把握すること。その情報を元に相手の意図を汲み、また汲ませること。他の子は当たり前のようにできていて、どうすればいいかなんて意識してもいないように見えた。
まるでテレパシーでも使っているように、シームレスな意思疎通。判断材料になる情報量が、まったく違うのだ。そのことが、劣等感をちくちくと刺して、惨めで、苦しかった。
だから一生懸命考えた。
私は、私が「わかってない」ということを加味して、人に言われたことをそのまま飲み込むのをやめた。自分の認識で合っているか。相手の目的は何か。そういったことを確認して、どう動くべきか、考えを組み立てる癖をつけた。時には、改案を持ち出した。普段の会話から、こうしたことをなるべく心がけた。
はじめのうちは、意思疎通のミスを防ぐためにやっていた。恥ずかしくないように、迷惑をかけないように。また、安易に信じて負担がかかりすぎないように。
でもそのうち周りも成長していき、大人との関わりも増えていき、私の頭ではとても推し量れないほどの狡猾さを持った人間ばかりになった。
ある程度の理解力らしきものを身につけたつもりでいたけれど、元が「鈍臭い子」であることには変わりない。本音と建前というものに、私はめっぽう疎かった。だから怖かった。
生来苦手なことを、なんとかできるようになろうと背伸びしてみて、その先でまた似たような問題に出会う。これをまた同じやり方で乗り越えようとするうち、少々過敏になってしまった。
「真面目にやりなさい」
「勤勉は美徳、努力は報われる」
「あなたのため」
そんな言葉の羅列に、猛烈に嫌気が差すようになった。
ミスしないための対策だったのが、いつしか他人のコントロールを跳ね除けるための自衛にすり替わった。
就活を考え始めたころ、同級生と希望の職場について話した。
ひとりが「言われたことをやるだけなら、楽でいいのにな」とこぼすと、その場の全員が同意したものだから、背中に衝撃が走ったのをよく覚えている。世の中にはそんな考えの人がいるのか。
「言われたことにただ従う」というのは、私にとって最も忌むべき行為といってもいいくらいだった。誰かに従うということは、誰かに責任をとってもらうことではない。それは仕事であっても同じことで、どんなに聞こえのいいことを上が言っていたって、見えない意図が潜んでいる。見抜けないと痛い目を見る。
少し歳を重ねてみれば、そうした危機感が的外れだったとわかってきた。狡猾な生き物に見えた彼らはたぶん、私が恐れていたようなことはあまり考えていない。同級生たちが言ったように、「言われたことをやっている」だけだったのだろう。
親が、先生が、上司が、世間が、そう言うから。それはある種の社会性。嘘や誤魔化しもあるけれど、明確な悪意というよりは、ただ無意識にそうしているのかもしれない。辻褄を合わせるために。だから、無理に悪意を見抜こうとしても意味がない。
懸命に背伸びしてわかったのは、盛大に空回りしていたということ。劣等感で肥大した猜疑心が、過剰な悪意を私に見せていた。悪い意味での期待だ。
そういうのは、もうやめようと思う。身を守る緊張を、信じる勇気に変えていきたい。そして、ぜんぶひっくるめて楽しめる強さがほしい。
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