「好き」だったはずなのに、気づいたら「気持ち悪い」が勝ってしまう。

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同じクラスに同じ中学から進学したひとは、私ともうひとりしかいなかった。通っていた中学から20人以上も同じ高校に行ったのに、私のクラスには彼と私だけ。卒業する年の冬、仲良しと評判だった彼女と別れたという噂を誰かがしていたような気がする。

同じ中学からきたひとりきりのクラスメイト、顔が整っていて背が高くて、話してみたら意外と話も弾む。それは高校生の私にとって、「好き」になるのに十分すぎる理由だった。
と、思っていた。

新規メッセージを示す赤のアイコンが彼からでありますように、と思いながらLINEを開くとき、通知を見たいような見たくないような気分になること。
眠りに落ちる前のひととき、彼に抱きしめてもらえたらどんな感じなんだろうと想像して、なんだか悪いことをしている気分になること。
席替えで彼が私の後ろを引き当てたこと、プリントを回すたびに「ありがと」と言ってくれること。
そのすべてが淡いきらめきと、少しの危うさに満ちていた。

そのときは、きっと「本当に」恋をしていたのだろう。

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夏休み間近、地元の花火大会でたまたま彼と会った。
ちょっとサイズの合っていないシースルーのオフショルダーのトップスも、鮮やかすぎる韓国コスメのティントリップも、彼は褒めてくれる。
あ、いけるかも、と思った。

その夜、「つきあってほしい」とLINEを送った。送信アイコンをタップするときの呼吸の浅さと息苦しさは、今でも生々しく思い出せる。
当然のように、「めっちゃうれしい!これからよろしく!」と返事がきた。

でも、ときめいて楽しいのはそこまでだった。
私から告白したくせに、彼からの「好きだ」とか、あまつさえ「愛してる」なんて言葉を受け止めきれない。否定できない違和感が心の底にたまっていったけれど、見えないフリをした。
はじめてのデートで手をつないだときも、誰も通らない裏道でキスされて抱きしめられたときも、彼のベッドに押し倒されたときも。
違和感と、よろこんでいるフリをしなきゃ、という義務感が渦を巻いていた。

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付き合っているなら、「好き」ならそういうことをして当たり前。
そうできないのはおかしいことだから、付き合っている空気を壊したくないから。

いつの間にか、LINEの返事を待っていた頃のときめきは、どこにもなくなっていた。

違和感が確かな嫌悪感に変わるのに、そう時間はかからない。
私の誕生日の二週間後、「別れてください」とお願いをした。
彼は自分で払うと言ったけど、やたらと甘い抹茶ラテの代金は彼の分も私が出した。
そんなんじゃ勝手に好きになって勝手に嫌いになったわたしのエゴは相殺されないと、わかっていたけれど。
二週間後、彼に新しい彼女ができたことを友達伝てに知ったとき、ひどく安心したことをよく覚えている。

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わたしの「好き」は、普通の「好き」とはどうやらすこし違ったらしい。
触れられたくないだけなら「好き」だと言われることは受け入れられるはずなのに、それさえも耐えられない。
そもそも本当の「好き」ではなかったのかもしれない。
例えば、彼氏がいるとかいないとか、自分主体の恋バナができるとかできないとかいったことで無意識にマウントを取り合う未熟な社会のなかで、テンプレートの恋をすることに焦っていた、とか。

けれど、それだけではあの頃感じていたときめきは説明できないような気がする。

だから、今でもわたしの「好き」はよくわからない。
それでも、わかったことはある。

彼を好きにならなければ、告白するときのめまいのような高揚も、「好き」という言葉の湿度も、知らないままだった。
彼を好きにならなければ、男の人に抱きしめられることがわたしにとってどういうことなのか、ずっとわからないままだった。
彼を好きにならなければ、わたしの「好き」がこういう形をしていると気づけなかった。

きっともう会わないし、悪いことをしてしまったと思っているけれど。

あの時の「好き」に正直に向き合えたことは、たしかに今のわたしを形作っている。