家に帰りたくない。
同棲を始めてから2週間弱。初めてそんなことを思った。

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帰り道の電車はいつもより混んでいて、じめじめした空気がブラウスにまとわりつく。もう梅雨が始まっているようだ。靴は湿るし髪はべたつくし、本当に困った季節だ。
電車が最寄り駅に到着した。ホームに降りてからも、私の足取りは鉛のように重い。

帰りたくない理由は明白だ。昨晩の喧嘩のせいだ。
仕事終わりは、いつも私のほうが彼氏より30分ほど早く帰宅する。私が夕食を作り終わったくらいに彼氏が家に到着し、一緒に食事をとるのが毎日のルーティンであった。

しかし昨日は少し違った。いつもの時間を1時間ほど過ぎても、彼氏が帰ってこない。残業が長引いているのかな。それなら、一言くらいLINEをくれてもいいのに。
私はさっさと夕食を済ませ、お風呂に入った。お風呂から上がってもまだ彼氏は帰ってきておらず、連絡も来ていない。1人分の夕食にかけられたサランラップが、寂しく照明を反射している。
連絡のひとつもよこさないのは珍しい。事故にでもあっていたらどうしようと不安が募る。

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「何時ごろ帰ってくる? 大丈夫?」LINEを送ると、待っていたかのように既読がついた。
「同僚と飲んでた 今から帰るとこ!」お気楽な返事とともに、きつねのスタンプ。

カチンとくる。飲みにいくのは良いが、分かった時点で連絡をよこすものではないか?

普段通り2人分の夕食を作った私の労力を返してほしい。ついでに、事故にあったのではと心配した時間も返してほしい。

帰ってきた彼氏を玄関で待ちかまえ、苦言を呈した。帰りが遅くなるなら連絡をよこせ、なるべく夕食を作り始める前に、と。

「その日のノリで外食したい時だってあるだろ」「浮気でも疑ってんの? ウケる」ベロ酔いで上機嫌の彼氏は手をヒラヒラと振り、全く反省の色が見えない。
頭に血が上る。心配していたのに、ここまで軽視されては黙っていられない。私は考えうるかぎりの罵倒を投げつけて、返事を待たず寝室に飛び込み、扉をバタンと閉めた。
悲しいかな暴言パワハラ上等のブラック企業あがりなので、人を攻撃する語彙だけは潤沢だ。彼氏は酒で記憶が飛ぶタイプだから、どうせ明日には何を言われたか忘れているはずだ。

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翌朝は彼氏が起きる前に出勤した。ひとりになって思い返すと、昨晩は少し言い過ぎたかもしれない。もともと自分の口が悪いのは自覚している。

彼氏にしてみれば同棲して初めての外食だったわけで、連絡することに思い至らなかったとしても無理はない。楽しく飲んで帰ってきたら不機嫌な彼女が待っていた。そんな状況でつい無神経な言葉をこぼしてしまったのだろう。情状酌量の余地はある。
彼氏は今朝起きてから、どんな顔をしていたのだろう。

そんなことを考えて、一日仕事が手につかなかった。メールの宛名欄に長々と本文を打ちこむ。上司に渡す資料を取り違える。打合せに遅れそうになる。化粧室でお気に入りのリップを落として折ってしまう。散々だ。

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言い過ぎてごめん。帰ったら、彼氏に言おう。
重い足を引きずって駅から家に向かう。相手も悪いのに、私が先に謝らなくてはならないのだろうかと、少ししゃくに障る。
道中の赤信号で立ち止まる。足元に大きな水たまりができていて、パンプスのかかとが濡れた。のぞき込んだ水面には油が微かに浮き、口を引き結び疲れた目をした自分がこちらを見ている。ひどいツラだ。

自分の非を認めて謝るのは、気持ちのいいものではない。でも、私は彼氏とこれからも協力していきたいし、ぶつかった時や傷つけた時には謝って、ちゃんと仲直りする関係でいたいのだ。
そのためには、これから言う「ごめんなさい」はとても重要だ。相手と自分の過失割合はいったん置いておき、自分の不適切な振舞いについてはちゃんと詫びなくてはならない。
信号が青になった。「通りゃんせ」のメロディとともに、横断歩道に人が流れ出す。
行きはよいよい、だけでは、同棲中のあれこれを乗り越えることはできない。

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ガチャリ。夕食を作り始めたところで、玄関が開いた。今日はいつもより早い。
「ただいま」気まずそうに、後ろで手を組んでいる彼氏。
「おかえり…あの」少し言いよどむ。切りかけのジャガイモが、ころんと床に落ちてしまった。

拾おうとしゃがんだ時、彼氏が言った。「昨日はごめん。悪かった。これからは外食するとなったら早めに連絡入れますので」
先制されたことに、少し安心した自分がいた。小さく息を吸って私も言う。「こちらこそごめん。ちょっと言い過ぎちゃった」
ジャガイモを拾った。少し埃がついてしまったが、洗えばよいだろう。

彼氏が後ろに隠していた手を差し出した。小さな白い箱に、駅前のお菓子屋のロゴ。
「ゼリー、美味しそうだったから買ってきた。ごはんの後、一緒に食べよう」
子犬のような目がいじらしく、クスリと笑ってしまった。私の機嫌の取り方をよく分かってくれている。
夕食の後、2人でゼリーを食べた。期間限定のあじさい模様のパッケージ。これからは、仲直りしたいときにゼリーを買ってくることになりそうだ。

Fin.