人の顔がわからない。調べると相貌失認というらしい。有名なハリウッドスターも患っているとか、多くの人と関わり合う生活の中でその苦労は如何ばかりだろう。
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私は人の見分けがつかないわけではないのだが、思い浮かべるのが苦手であると最近気づいた。特に困るのは待ち合わせの時で、目標もわからず漠然とキョロキョロすることになってしまう。シルエットや服装の記憶を辿ることもある。そうして運良く相手が視界に入ると、ああこの人だ!となる。写真があればその画像を記憶ないしカンニングできるので、連絡先のアイコンが本人だととてもありがたい。自分のアイコンは風景画なのに勝手な話だと思う。
ついでに美醜の判断がつかない。意地悪な人は醜く見えるし、笑っていればみんな美人だ。相手の表情を読み取ることは問題なくできていると信じたい。
ルッキズムが流行り言葉のように使われ、容姿へのジャッジがセンシティブになりつつある昨今においても、身近な人間からの美醜に対するポジティブな評価は歓迎される傾向にある。「貴方は中身が綺麗、中身で選んだ、好きになった」と殊更に褒められても、イノセントに喜べる人間はそう多くないはずだ。だから美醜がわからないことは進んで人に伝えることではないと思っている。
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ただ一方で、ルッキズムの外にいる自分の存在を知っていてほしいとも思う。私を見習えというつもりはさらさらない。日常で不便を被っているし真似しようと思って真似できるものでもないのだ、お互いに。
ところで顔を覚えられないのは脳の癖というかポンコツな記憶力の偏りのせいだとばかり思ってきたが、外的な要因があるのだとしたらストレスだろうか。
それで思い出したのは、両親からよく整形を勧められていたこと。寛容で柔軟な親を演じながら、それで私が「するわけないじゃん」と答えるとあからさまにホッとした顔をするのだ。自身に似た特徴に引け目を感じていたのだろう両親は、ルッキズムの被害者と言ってよい。もし仮に私が前向きな答えを出せば、急に慌てて整形のデメリットを語り出すのかもしれなかった。でも私がやりたいと心に決めて強く言えば、許してくれるだろうこともわかる。その優しさを知っているからこそ、何度でもこの茶番に付き合ってきた。だが心が削られていなかったといえば嘘になる。生まれてからずっと付き合ってきた愛着のある顔で、大事にしたいとも思っていた顔だから。両親に似ているのだって誇らしかった。本来は優しく明るい両親なのだ。自分と両親の顔をまとめて抱きしめてあげるのが親孝行になるならいくらでもしてあげよう。そう思ったのを覚えている。
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そして今。鏡で、電車の窓で、友達のカメラで自分の顔を見た時、ただ「顔だ」と思う。目と鼻と口があって、人間の顔をしている。見ていない時は分からない。
厳密には私は“評価される側”なので当事者であることからは逃れられず、「にこにこしてたら可愛いよ」とこれもまた親から言われた言葉を信じて生きている。もう判断する術を持たないので。
今の若い子はこれまで以上に素材を磨くことが求められてると感じる。少ない(そう見える)加工で、より自然に(整形も駆使して)、かわいい姿に。時には両親や祖父母の若い頃の容姿もジャッジされる。「にこにこしてたら可愛いよ」の世界ではない。それでも、にこにこしていてほしい。笑顔でいられる環境にいてほしい。私にはそれがとびきり可愛く見えるし、私のこともそう思ってほしいから。