梅雨の時季の金木犀とアマガエル。一瞬に甦る思い出と現実に降る雨

子どものころ、梅雨の時期になるとアマガエルを探していた。家の鉢植えに植わっている金木犀の木。それほど大きくはないものの、時期になるとオレンジ色の花を咲かせて、心地よい香りを放ってくれた。小さな花の形も、スッと私に入ってくれる香りも大好きで、家にある植物のなかでお気に入りのひとつだった。金木犀は梅雨の時期になると淡い黄緑色の葉を茂らせる。椿のようにしっかりとした葉で、光沢があり、少ししなっているが雨の重さには負けない葉だ。
アマガエルは、そこに雨宿りをしにやってくる。カエルにとって梅雨はオタマジャクシから成体になりしばらくする頃であり、ふっくらと、ボテッとした個体も多く見かける。梅雨時期はいたるところがしっとりしているので、皮膚呼吸には嬉しい時期だろう。
地面にいることはもちろん、家の壁や窓、庭先のコンクリートにもくっついている。いろんな場所にいるアマガエルだが、金木犀の葉にも乗っかっていた。個体の重みもあって、少ししなっているので、ロッキングチェアのような揺れが見られるときもある。あの揺れがアマガエルにとっても気持ち良いのだろうか。葉に乗ってすぐ、揺れの余韻が残っている葉の上で落ち着いたアマガエルはどこか気持ちよさそうな表情に感じられた。
学校へ行くとき、遊びに出かけるとき、家を出るときに目に入るその光景は、私の中で梅雨の風物詩となった。いちばんお気に入りなのは、ボテッとした鮮やかな黄緑色のアマガエルが、黄緑色の艷やかな葉の中央に乗っていて、重みで葉がしなっている光景。アマガエルと葉のバランスがよく、私的黄金比が作られている。個体の色も、日本のアマガエルを感じられてきれいな見た目である。雨上がりで、葉に水滴がついていると一層梅雨らしさがあって好きなのだ。
梅雨自体は、私はあまり好きではない。ジメッとしており、傘を持って出かけるめんどくささは早く終わってほしいと思う。けれど、梅雨だから見られる光景があり、季節を感じられるという点は嫌いではない。春に桜を見るように、梅雨に水滴がついている葉を見るのは美しいと感じる。アマガエルがいるのも風物詩的要素が大きい。
子どもの頃の私は、アマガエルには好意的な印象しか持っていなかったので、手に乗せて遊べたくらい好きだった。私に気づいて逃げていく後を追いかけたり、金木犀の葉の上で揺られながら休んでいるところにツンツンと起こしてみたりした。通学路に落ちていた枝を拾ってきて、その枝でつついてちょっかいを掛けて遊んでいたりもした。家族はあまりいい顔をしなかったが、私にとっては良き遊び相手でもあった。
梅雨はマイナスな印象が多い。どんよりとした空模様や空気、ぱっとしない自分の機嫌、整わない自律神経。髪や肌も整わず、何をしてよいかわからない時間を過ごすことも多くなる。出不精にもなるので、考えなくてもよいこれからの不安も膨らんでしまう。大人になると嫌なことが多くを占める季節だが、子どもの頃は嫌な思いをあまり感じなかったように思う。こういった小さな思い出があるからだろうか。
もうすぐ梅雨がやってくる。最近は、梅雨が長く続いたと思えばすぐに夏の猛暑が押し寄せる。季節の変わり目がわからなくなっている。子どもの頃の記憶など思い出す暇もないくらい忙しないので、こうして梅雨に思いをはせることはめったになかった。今も、思い出しながら、思い出がちゃんとあったことに驚いているくらいである。
今年の梅雨は、あの頃に戻って梅雨を感じてみようと思った。大人になって違った感じ方ができるのだろうか。感じたことはちゃんと覚えておかなければ。最近はやけに記憶が抜け落ちる。日常の一コマなど記憶さえされないのではないかと思うときもあるくらいだ。貴重な感情の動きだから、しっかり季節を感じてみよう。
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