裸足に伝わる小石の冷たさ、季節の移ろいを感じさせる風。どこからともなく風が運んできた、すんと鼻をくすぐり脳まで到達する香り。
金木犀を纏った夜、父が家を出ていった。
父が家を出た日、オレンジ色の小さな花が香る切ない夜がそこにあった
母の動揺する声から、父がいなくなったことに気づき、玄関を飛び出して父の車を探す。車はなく、もう出ていった後だった。代わりに、オレンジ色の小さな花が香る切ない夜がそこにあった。
裸足で小石を踏みしめて、しばらく車が行っただろう方向を眺めて、それから家の前にある金木犀の木を見上げる。春には雛もいて賑わっていた巣が、小さくなってぽっかりと枝に乗っていた。何を見ても涙は出ず、空虚な気持ちが佇んで離れなかった。
家に戻ると、コードを切られた電話機、真っ二つに折られた折り畳み携帯電話、連絡手段となるものは破壊され、荒れていた。
動揺し混乱している母の姿と、何も知らない幼い弟がそこにいた。まだ小学生にすらなっていなかった私の頭では、父が突然いなくなったことしか理解できなかった。
家庭内暴力もあった若い両親のもとで育った私が憶えているのは、母や弟の前では別の顔を持つ父の姿。大人になりきれていない高校生で子どもを持ち、大人にならざるを得なかった母の姿。
どこからどう見ても若すぎる家族に、周囲からの目も厳しいように感じていた。
大人になっても、金木犀の香りと共にあの頃の冷たい生活が纏わりつく
両親共働きで、ただでさえかつかつだった生活が、父がいなくなりさらに厳しくなった。
母親を支えるため、弟の面倒を見るのが姉である私の役目。小学校の帰りに保育所まで弟を迎えに行き、ふたりでごはんを食べる。帰りが遅くなるときは、同じ布団で弟を寝かせる。時には、祖父母のもとへ預けられた。
周りの友人たちを見て、家族のあり方や小学生のあるべき姿から置いていかれた感覚を抱き心細くもなる。もっといろんな家庭があるから恵まれている方だと言われるかもしれないが、小さすぎた世界の中で、父と母がいて当たり前に幸せと言える幼少期の記憶を持っていないことが、コンプレックスにもなった。
環境が環境だっただけに、取り残されている感覚だけがずっと心の中に佇んだ。
大人になってからも、金木犀の香りと共にあの頃の冷たい生活が纏わりつく。誰かに置いていかれてしまうのではないかと心細くなり、膝から崩れ落ちる感覚がある。金木犀の香る季節になると、さよならの季節がまた巡ってきたと感じる。
切ない香りが彩る夜には、生きることを難しく考えすぎて涙が止まらなくなる。「あのときはあれで正解だったの」と自分に言い聞かせるように母は話すから、これでよかったのだろう。
でも、父がいなくなり見捨てられたと感じた経験や、冷たく厳しい生活を思い返すと、このオレンジ色をした夜に溶けてしまいたいとさえ思っていた。
金木犀の香りは、父との思い出が詰まった自分を奮い立たせるお守りに
最近、父との再会を果たした。同じくらいの身長になっており、すっかり記憶の中にある父からは変わっていた。
あの頃に感じていたさびしさや大人になるまでの生活、自立したことも伝えられた。もういつでも父に会えるようになった。
そして、金木犀の香りは、父との大事な思い出の詰まった自分を奮い立たせるお守りになった。
気づけば、金木犀の香りがする香水を10本も集めていた。金木犀が入っていない香水は購入を少し考えてしまうまでになった。
忘れたくても忘れられない金木犀の香り。もう纏わりついてほしくないのに、いつまでもその香りに溶けて包まれていたくなるのは、季節が移ろってもこの香りはお守りだから。
今日だって、忘れられない香りを愛おしむために、私は金木犀を纏う。