大丈夫。「少食なんです」と伝えても、嫌われたりしない

今、私は食べる時間が好きで、毎日の楽しみになっている。
次のごはんは何にしよう、どんな食材をどこで買って何を作ろう、新作スイーツは誰といつ食べよう、と常に考えている自分がいる。
食べることを楽しみに、日々稼働しているといっても良い。
「ごはんを食べるのが面倒」という人にもしばしば出会うが、ほう、そんな考えもあるのか。と、新鮮な気持ちになる。私は毎食を美味しく楽しく過ごすことをモットーに生きているが、人類にとって共通の「食」の時間にも、自由な考え方があって当然だなと、改めて感じる。
そんな私にも、食事の時間がストレスで苦痛だった時期がある。
その日々があったからこそ、「食を楽しむ」ことを意識して生きているのかもしれない。
私は幼い頃から少食で、食べることに対して常に過度のプレッシャーを感じてきた。
あまり食べられない姿を見せて、誰かに幻滅されたり、場の空気を壊すことが怖かった。
特に小中学生の頃は、心身共に不安定だったこともあり、食事が喉を通らない日々が続いた。
しかし、「食べなければ」と感じるほど、胃は収縮していくのだ。毎日同じ時間に同じ量を食べることが当たり前とされる給食の時間は、まるで拷問だった。
母が作ってくれたごはんを食べられないことに対しても、日々罪悪感を感じていた。「残しても良いからね」という言葉は、あまり救いにはならなかった。残す、という行為自体を、誰にも知られたくなかったからだ。
親戚の集まりでも「○○ちゃん、もう食べないの?」「デザート食べる?」「いっぱい食べてね」「ダイエットしなくてもいいよ」などと大人たちに口々に言われ、私はその言葉の矢を受け続けた。引きつった笑みを浮かべながら、期待に応えられない自分を責めていた。
食べられる人が食べないのは、簡単だ(と当時は思っていた)。
でも、食べられない人が食べることは、どうしても無理なのだ。「病気?」などと心配されて、楽しいはずの食事の場を侵害しないよう、食べるふりをしながら気配を消すことに徹した。
ただただ、放っておいてほしかった。食べないという選択肢を与えてほしかった。どうして世の中は、3食きっちり食べないといけないシステムになっているのだろう、なぜ、食べられないだけで私はこんなに苦しんでいるんだろう、と。
あの頃は、独りで泣いてばかりだった。
ある日、見かねた母が、「食べなくても元気なら良いんよ」と言った。その言葉にどれほど救われたか。「えっ」と目を見開いた。母が食べられない私を責めていないことが分かり、気持ちがふっと楽になった。
幼い頃は、自分の周りの世界が、唯一の正解であるかのような感覚に陥る。
「沢山食べる子どもはかわいい」「子どもは元気に食べるもの」
そんな大人の理想を子供ながらに感じた。少食の自分は、かわいくない、幻滅される、普通じゃないと心配される、と、あの頃は常に不安に駆られていたように思う。
時が経ち、気がつけば、食べられない時期が過ぎていた。ただ、今でも誰かと一緒に食べる場は、少し緊張する。でも、素直に少食だと打ち明けて場に溶け込んでいる人に出会ったり、今日のごはん会は楽しかった、参加して良かった、と思える日が増えていくうちに、
私は、「食べたいものを、食べたい時に、食べたいだけ」食べ、自由に生きられるようになっていった。
時には自分から誰かをごはんやカフェに誘うこともある。
少食で、他人の目を恐れて、食事の時間に緊張する人。きっと私の他にもいると思う。
私は今でも、食事の約束をするときは、万全な状態で行かなければ!と背筋が伸びる。
それでも、体調が整わず、泣く泣く約束をキャンセルしたりもする。
そんなことがありつつも、それで私から離れていった人はいない(いたとしてもそんな人とは根本合わないだろう)。
食べられるときは、心と体が欲しているものを食べる。
食べられない時は、無理する必要はない。
人類共通の「食」の時間は、同時に、個人の自由でもある。
そのことに気づいた私は、10代後半から徐々に食の楽しさを知り、元気に今を生きている。
―幼い頃の自分へ。そして、少食で悩んでいる誰かへ。
「少食なんです」と伝えても、あなたは嫌われたりしない。
食の楽しさは、決して沢山食べることだけじゃない。
あなたの日常が、自由で楽しいものでありますように。
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