人の痛みが想像できなかったあの頃。10年越しの謝罪を親友へ

「ずっと謝りたかったことがあるんだ」―お泊りの最中、わたしは歯磨きをしながらおもむろにそう切り出し、10年前の出来事について親友に謝った。
彼女はいつも通りあっけらかんとしており、「そんなことあったっけ?」と笑った。
ずっと謝らなければと思っていたのは、中学生の頃のこと。わたしたちは同じ運動部に所属しており、毎日練習に励んでいた。そこそこの強豪校で、わたしたちの部は「総体連覇」の垂れ幕で校内でも存在感を放っていた。
ある放課後のこと、彼女はお腹が痛いので練習はせずに見学していると言う。当時まだ生理が始まっていなかったわたしは、「わたしだったら練習するけどなー」と心ない言葉を放ってしまった。今思うと信じられない発言なのだが、10代の頃の自分は、それぞれに事情があるのだということを念頭に置けず、人の痛みを想像する優しさも持ち合わせていなかった。
彼女の反応を覚えていないことからも、自分の目線だけで、何気なく口にした言葉だったことが分かる。
彼女は家に帰ってからこのことを泣きながら母親に話したらしく、うちの母に電話がかかってきた。それでこっぴどく叱られた記憶はないが、電話があったことを聞いて、「あぁ、何気ない一言で大事な友達を傷つけてしまったんだ」と気がついた。
彼女とは小学生の頃から一緒で、よくもわるくも何でも言い合える仲だった。そんな関係性にあぐらをかいて、家でひっそり泣くしかないような状況に友を追いやってしまったのだ。
それからの10年間で自分自身もいろいろな痛みや挫折を味わい傷ついた分、人の事情を想像すること、あるいは想像せずに受け止めることができるようになったと思う。
特にここ数年はわたし自身、心身の不調に悩まされることも多く、その度に、かつて想像することのできなかった他者の痛みやしんどさに思いを馳せる。身体的な痛み、精神的な傷というのはどうしたって本人にしか分からない。けれど、「自分もそういうことあるな」とほんの少し振り返ったり、無理に理解しようとせずに見守ったりすることは、誰にでもできると学んだ。
謝るというのは大人になればなるほど、簡単ではなくなってくる。素直になれない、謙虚になれないという理由もあるけれど、わたしには謝罪が自己満足に思えてしまうことがある。一度やってしまったことは取り返しがつかないという事実を忘れて、自分がすっきりするために謝りたいだけではないか?と。
過ちをおかした自分を許してほしいし、謝ることで少しは罪悪感が晴れる。実際、今回「あの時はごめん」と言って良い思いをしたのはわたしだけかもしれない。それでも謝ったのは、自己満足がどうとかいう理屈からではなく、謝らなければならないと思ったからだ。そうしないと、この先も友達でいる資格がわたしにはないと心の奥底で感じていた気がする。あれ、やっぱり自分のためか......。
彼女とは高校から離れ離れになったが、ありがたいことに今でも年に数回は会ったり話したりしており、あの頃と変わらず何でも話せる関係だ。
一つ変わったのは、その関係性に深い感謝の気持ちを覚えるようになったことだ。謝った時に彼女がからりと笑ってくれて少しホッとした。ひょっとしたら忘れていたわけではなく、どこかで謝罪の言葉を待っていたのかもしれない。けれど、そんな素振りを見せずに今までどおりでいてくれるのは、彼女の優しさだと思う。
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