ばーば、ごめんね。

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私の母は一人っ子で、かなり我が強いが、実は内弁慶で気弱な一面もある。一方のばーばは、誰に対してもはっきりものを言う、男勝りでたくましい女性だった。正直、私は母に似ている。だからこそ、ばーばのことが好きで、いわゆる「おばあちゃんっ子」だった。

ばーばの家は広かった。幼い頃は何も考えなかったけれど、大人になった今なら分かる。あの家は、かなり裕福な家庭だったのだと思う。……自分はあまりその恩恵を受けていないけど(笑)。

長期休みになると、私はばーばの家に一人で泊まりに行っていた。気づけば弟もいて、一緒に過ごすこともあった。ばーばとじーじ、私と弟。特に何をするわけでもないけれど、アイスを食べたり、早起きして相撲を見たり、近くの公園で逆上がりの練習をしたり。そんな穏やかな日々が、うっすらと記憶に残っている。

じーじが何の仕事をしていたのかは、知らないし覚えてもいない。ただ、平日の昼間には家にいなかった。ばーばは、バブルの時代に購入した物件でバーを営業していた。何度か遊びに行った記憶はあるが、店の中で何をしたかまでは覚えていない。でも、あの場所がとても好きだった。だから、売ったと聞いた時は本当にショックだった。今は日サロになっていた気がする。何階だったのかも、あやふやだ。

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大きくなるにつれて、ばーばの家に長く滞在することもなくなり、気づけばじーじは癌で早々に亡くなっていた。そして、ばーばは家を売って地元へ戻ってきた。一緒に暮らす選択肢もあったらしい。でも、母が私たちの生活を考えて断った。その判断を、母も私も後悔している。

一人になったばーばは体調を崩し、透析生活が始まった。自分のことすら手に負えなくなっていたと思う。でも、彼女の性格上、助けを求めることはなかった。だから、私たちは「大丈夫だ」と思ってしまっていた。

大学1年の秋、貿易の授業中に、母から異常な数の着信があった。大学の時間を知っている母が、こんなに電話をかけてくるなんておかしい。そう思ってLINEで返信すると――
「ばーばが倒れた、今病院に運ばれてる」

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パニックだった。でもきっと、母の方がもっとパニックだと思い、私は「おばあちゃん倒れたから帰るね」と友達に伝えて、教授にも話してすぐに退出した。なのに不思議と、電車の中では落ち着いていた。ばーばは、強いからだ。

たまたま遊びに来ていたばーばの姉が、倒れていた彼女を見つけてくれたおかげで、命は助かった。でも、私が病室で見たばーばは、あまりにも弱っていて、普段の彼女からは想像もできなかった。私の顔を見ると、母と勘違いしたのか安心して眠ってしまった。

数日はそんな状態が続いた。でもやっぱり、ばーばは強かった。今まで通りとはいかないが、杖をつけば歩けるほどに回復した。週3でヘルパーさんに来てもらい、透析にも通えるくらいにはなった。私と一緒にお寿司を食べにも行けた。

けれど、物忘れの進行は明らかだった。最初は私のことを母の名前で呼ぶようになり、久しぶりに顔を見せると「綺麗なお嬢さんね」と、ヘルパーさんと勘違いされる日もあった。それでも、じーじがもういないことは理解していたし、あんなにたくましかったばーばが「じーじがいなくて寂しい」と泣く姿を見たとき、私は本当に胸が痛くなった。

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ある日、私は整形をした。母には泣かれ、否定された。私は自分の顔に強いコンプレックスがあったから、何も言わずに決行した。でも、ばーばは違った。

整形後、初めて顔を見せたとき、ばーばは私の名前を呼んで、
「またべっぴんさんになったわね。だれかと思ったわ」

その瞬間、涙が止まらなかった。ばーばのその言葉だけで、充分すぎた。

ばーばは、その後また倒れた。退院しては倒れ、を繰り返し、次第に言葉も出なくなった。先生からは「覚悟してください」と言われ、転院もした。それでも、ばーばは負けなかった。その状態で三年も頑張った。山場を越え、峠を越え、何度も戻ってきてくれた。

けれど、もう目も開かなくなったばーばを前にすると、母も私も心が限界だった。

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そして、10月3日夕方に病院から連絡があった。
母と二人で話した。

「明日、行こうね」

その「明日」は、来なかった。

私たちが病院に着いたのは朝の4時。ばーばは、最期のときまで一人で頑張っていたのだと思う。あの時、一緒に住もうと言っていれば。大学なんて、ばーばの家から通えたのに。そんな後悔が今でも消えない。

でも。だから。四文字で、別の言葉を伝えます。

だいすき。

それを言って、お別れします。