初めて故郷を離れ、一人で暮らした福岡で、大学を卒業する間際に母が倒れた。二度目の脳出血だった。
滅多にない妹からの電話。母が倒れるのはこれで二度目だった
普段はメールのみのやり取りで、滅多にない妹からの突然の電話に嫌な予感がよぎった。
母が最初に倒れたときも妹から着信があり、意識はあるが左半身に感覚がないようだと涙ながらに告げられた。
半身が動かなくても母は2年間かけてリハビリに励み、ヘルパーとしての仕事復帰が間近に迫っている中での出来事だった。
地元の鳥取に帰るには新幹線、特急列車、普通列車に乗り換えが必要で、最短でも4時間はかかる。
一刻も早く帰りたい気持ちと、どんな状態かも分からない母を目にする恐怖心が、頭の中で複雑に絡み合っていた。
到着すると、母方の叔父が駅へ迎えに来てくれていた。
どういう状況なのか尋ねる私に叔父は困惑した様子で「もう意識は戻らないかもしれない」とだけ答えた。
病院には父と妹がおり、そこで母が祖母の家で倒れたことを知った。
後から祖母にそのときの状況を聞くと、母は倒れる直前に近所の人から貰ったおはぎを一人で7つも一気に平らげたらしい。祖母はそれが原因だと考えているようだ。
血圧には気をつけるように日頃から言っていたのに、母には申し訳ないが何だか間抜けだなぁと張り詰めた空気が少し和らいだ。
妹とおふくろの味について話すと、決まって出てくる母の薄味のカレー
思い返すと母は食べることが好きで、特に人に作ってもらった料理は何でも美味しい美味しいと食べていた。
私と妹が作った料理は大抵不恰好だったが、味付けが最高だといつも絶賛してくれた。
反対に、母の手料理は正直なところ、美味しいとは言い難かった。
裕福な家庭ではなかったため、母の作る料理はいつもかさ増しされていて、特にカレーは具が少なく、スープカレーのように大量の水で希釈されていた。
妹と"おふくろの味"について話すときに、決まって出てくるのはその薄いカレーだ。
給食のカレーとは別物だったが、それでもカレーの日は特別だった。
台所から聞こえる包丁と、まな板がぶつかる音と、ひと嗅ぎで分かるスパイスの匂いは、今でも鮮明に思い出すことができる。
カレーの日はルーを割って鍋に入れることが子どもたちの役目で、私は今でもその工程が好きだ。
昔からじゃがいもが好きだった私のために、いつも母は多めによそってくれ、喜ぶ私を見て笑う母が好きだった。
母が作ってくれた薄味のカレーには、私たちへの願いが込められていた
今、母は6年間以上、寝たきりの状態でいる。
言葉を発することも頷くことも出来ず、私たちのことを認識しているのかどうかも分からない状態だ。
口から食べ物を食べることが出来なくなり、大好きだった食事もただ生命を維持するだけの行為になってしまった。
母は二度目に倒れる直前に「もう一度料理が作れるようになりたい」と何度も繰り返していたが、おそらくその願いが叶うことはもうない。
近頃はレトルト食品も発達していて、美味しいカレーが気軽に食べられるが、母のカレーに勝るものはどこを探してもないと確信している。
あの薄味のカレーはたくさん食べて大きくなってほしいという母の願いが込められていることに気づいたからだ。