辛さは征服するものだと思っていた私へ。戦うのではなく、味わうのだ

「辛いものが好き」と言うと、よく「激辛得意なんだ!」って言われるけど、私の場合はそういう口の中が燃えるようなことを求めてはいない。
汗をかきながら限界に挑む「戦うような辛さ」ではなく、もっとじんわり、体と心をあたためてくれるような、やさしい辛さのことを指す。
その代表が、サンラータン。
生姜とお酢とたまごと辛みが混ざり合って、マイルドに酸っぱ辛くて、お腹があったかくなる。
食べ始めるといつのまにか余計なことは考えなくなる。
そして、気がついた頃には身体中がぽかぽかして汗をかいているのだ。
サンラータンは、私にとってちょっとしたご褒美であり、一日をリセットする「やさしい刺激」だ。
昔は「辛いものなら何でもいける!」と、根拠のない辛さへの自信があった。
辛いものを食べきることが強さの証みたいに感じていた。ヒリヒリした舌や流れる汗、それでもなお箸を止めない自分に対して、根性を試しているような快感を覚えていた。
そんな私の「辛さつよつよ神話」がガラガラと崩れたのが、高校生のとき。
休日に立ち寄ったラーメン屋さんで、辛いお肉がどっさりのったラーメンを頼んだ。運ばれてきた瞬間、見た目は真っ赤。
ちょっとヤバいなと思いつつも、食べ切れる自信があった私は、そのラーメンに果敢に挑戦した。
……結果、まったく食べられなかった。
ヒリヒリを通り越してジンジンと舌が痛み出す。
耐えきれなくて、店の中でみっともなく涙で顔をぐしゃぐしゃにしながらレンゲを置いた。
その後1~2時間ほどずっと舌が痛くてべそべそ泣いたことは今でも忘れられない。
自分にも「辛さの限界」があると知ってからは、辛いメニューに対して慎重になった。
食べられない辛さは、ただの拷問だということを学んだ。
「辛ければいい」じゃなくて、「おいしく食べられる辛さ」が大事だということに気づかされた出来事だった。
無理に戦う必要なんてない。辛さは、味わうもの。
敵視していた辛さを、スパイスの効いた味方として迎えるようになってから長い年月が経つ。
サンラータンを食べる時は、ひとりがいい。
そのほかのことを何も考えず、無心になって味わいたいからだ。
酸っぱさと、ほんのり舌にくる辛さ、まろやかなあったかさ。
それが喉を通って、じんわり体に広がっていく。
とくに、仕事をがんばった日。
お客様の対応で残業して、へとへとに疲れ切った日。ごはんを作る気力もない。
そんなとき、ふとサンラータンが恋しくなる。
包み込まれるような味なのに、ちゃんとピリッと辛い刺激もあって。
そういうのがどうしても食べたくなると、途中下車してラーメンを食べに中華料理屋へ立ち寄るのだ。
汗をかいて、ふうふう言いながらそれを口にする。
そのあいだじゅう、私は食べること以外何も考えてない。本能で動く、一番シンプルな「生きもの」に戻るのだ。
頭で考えすぎていたものが一旦リセットされて、解放される。
サンラータンが食べたくなるときは、無意識にそのひとときを求めているせいもある、かもしれない。
わたしにとって辛いものは、刺激だけど「戦い」ほどではないもの。
無理に気合を入れる必要もない。
じんわり汗をかいて、体の中から温まって、心が軽くなる。
それがわたしの「ちょうどいい辛さ」。
サンラータンは、辛さも、酸味も、あったかさも、優しさも、ぜんぶ詰まってる。私の味方みたいな存在。
だから、頑張った自分に「おつかれさま」って言うかわりに、ときどきサンラータンを食べる。
昔の私は、辛さを「征服するもの」だと思っていた。
でも今は無理して辛さに勝つより、自分にちょうどいい辛さを選ぶほうが、ずっと心地いいと知っている。
辛いけど、マイルドでやさしい。
それが、私がサンラータンを好きな理由だ。
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