孤独の湖に沈められるような心持ちになっても、果てしない夢を見たい

小さい頃、アイドルになるのが夢だった。当時ミニモニが一世を風靡している時代で、ブラウン管の中のキラキラしたアイドルを見るのが好きだった。
幼稚園の卒園文集の絵のテーマが将来の夢だったので、もちろんアイドルになった自分を描いた。インカムをつけてミニスカートを履いて、踊る準備は万端という絵だ。
その後は親族の影響でスタイリストに憧れた。月に一度、必ず本屋さんに行って女子小中学生向けの雑誌を買っていた。中身ももちろんのこと、素敵な付録が目当てだったのである。
その頃は図鑑や小説よりも雑誌に夢中で、きらびやかな視覚情報を得ることが何よりの楽しみだった。自分と同い年のモデルさんを見つけては、憧れの気持ちを抱いた。
と同時に「同じ人間なのに、同じ年齢なのに、同じ国の国民なのに、一体私はなぜこの人たちと同じような外見ではないのか?」という根本的な疑問を抱き、コンプレックスを感じた。
その疑問が浮上したのは小学校高学年の頃で、中学校に上がると自己卑下の感情が止まらなくなった。自己肯定感のじの字もない、それは苦しい日々だった。
私は昔から観念に支配されやすく、現実をまっすぐに見つめることが難しい。そのためか、鏡の中の自分を正しく認識して改善を図るという行動も、どこかぎこちないかもしれない。
中学校の頃は親に隠れて注文した金髪のウィッグと青いカラコンを自室で秘密裏に装着していた。もちろん人には絶対に見せず、ガラケーの外カメで写真を撮って変装欲を満たしていた。黒歴史すぎる。
その頃はスタイリストになることも諦めていて、先の見えない真っ暗なトンネルの中で足踏みをしているような状態だった。
高校に上がるとハードロックやアングラカルチャーにハマって、その方面のバンドを組みたいと思った。中学の頃にお年玉で買った赤いエレキギターでコードを覚えたり、耳コピでギターソロを弾いたりして備えていた。しかし仲間は現れることはなく、家で夜な夜な孤独にレコードを聴く日々を送った。今ならそんな偏った趣味の人は少数派であると分かる。いつだって恋愛映画がメインに躍り出て、決まりきった型のポップスが街に流れるのだ。
さて、それ以降は人生や世界に絶望し、特に夢も希望もない日々を送った。日和見主義で、風の吹くままに飛ばされて生きようと思っていたら次々に病気になって、病院通いの20代を過ごした。ざっと10年近くは通っている。
その間、音楽を聴く時間も多かったが本を読む時間もあった。純文学をはじめ、岩波書店の本、新書、童話などジャンル問わず様々な本を読んでいた。時代背景を無視して読むので、何がどの時代に書かれたかとかはあまり気にしていない。とにかく魂に響けば勝手に良書認定する。
本から受けた影響は案外大きかったようで、いつしか美しいと思った言葉や好きな言葉を自分の短歌やエッセイ、小説に散りばめるようになった。
文芸を嗜んでいると、新たな学びが多いのでとても豊かな気持ちになる。言い換えの言葉や類語を探し、「そんな言葉があるんだ!」と目をかっぴらいて驚くことも多い。
いつのまにか物書きを目指し、日々原稿用紙と向き合っている。夢も希望もない人間を救ってくれるのは、キラキラしたものの場合もあり、はたまた湿気の多い文学の場合もある。それは人によっても変わるし時期によっても変わるだろう。
夢を追いかけるのは容易いことじゃない。もともと孤独な方なのに、更に孤独の湖に沈められるような心持ちになって、永久の地獄にいるという錯覚を覚える時もある。
あることないこと不安がよぎって、もうこの世にいてはいけないと思う時も多い。
それでも湖の底から果てしのない夢を見ていたい。この肉体重視の時代に、私の培ってきたささやかな精神のこぼれものを、お裾分けできる日を願って。
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