私は辛いものが苦手だ。子供の頃は甘口のカレーしか受け付けなかったし、大人になった今は「中辛」なら…たぶん大丈夫、という感じ。「マイペッ」と注文した現地のタイ料理は、辛くないと連れが言っているのに辛くて食べられなかった。

辛いものを食べなくたって身体は疼かないし、むしろ辛くない方が快適だ。なのに私は時々、辛いものを食べている。そうして一口食べて、大抵後悔しながら、大量の水をお供に必死に完食する。後悔した癖に、割と懲りずに、早いと数日後にはまた辛いものを何かしら食べてしまう時がある。自分でも馬鹿だと思う。

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なぜ辛いものを食べるのか。激辛好きな知り合いのお姉さんは「辛いほど美味しいから」と言った。ちなみにその人はすべからく刺激が大好きな人で、スリル満点なアトラクションや最恐ホラー映画に笑顔で突撃する部類だ。つまり辛いものが好きなひとは、刺激がほしくて仕方ないのかもしれない。

そう考えると、私が辛いものを無意識に欲する時は、物足りなさを日常に感じている時、なんだろうか。まあ確かに物足りない時はある。そういう時になんとなく、お手軽に刺激を得る手段として、カレーや担々麺を食べているのかも。とはいえ私はそこまで刺激が欲しいと思う方ではないから、刺激物である辛いものもそこまで好きじゃない、ということか。何だか繋がった気がする。

では、なぜ人間は刺激が欲しいんだろう。
ありふれた日常を丁寧に重ねていくことが「何物にも代えがたい」「愛おしい事だ」と色んなところで謳われている。だったら刺激なんて「大事な」穏やかな日常を過ごすうえでは邪魔者のはずだ。

なのに我々は、辛いものが苦手な私ですら時々、刺激を欲している。まあ人間は不合理の塊だから仕方ないといえば仕方ない。にしても結局「ありふれた日常を大事にしよう」と言われるのは、実は誰もがそれに飽きているからこそなのかもしれない。

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本来、刺激を感じるのは、人間にとっては防衛本能のはずである。命の危険を敏感に感じ取り、身を守るために人間に備わった大事な機能だ。
しかし現代では、刺激はちょっとした娯楽へとなり下がっている。驚嘆、愉悦、戦慄、恐慌ーー刺激による劇的な感情の発露を、身体の反応を、私たちはいつからか楽しむようになっている。

平和な時代の証左、なんだろうか。しかし刺激をきちんと防御反応として捉えられなくなっているというのは、本能の退化ではないのだろうか。

そう考えると、街中で山ほど見かける激辛店の看板がどこか末恐ろしいもののようにも思えてくる。有名な看板の下、ジリジリと太陽に灼かれ、滝のような汗を流しながらも激辛ラーメンを求める彼ら彼女らは、自分の生存本能をさらに鈍化させる列に並んでいる。進んで命の危機に陥っていっているのだ。

かくいう私も、辛いものは苦手と言う癖に、ゼロ辛ならいけるかな…とその列に吸い込まれていくのだから、人間とは業が深い生き物である。