気づけば3ヶ月。自然と続いたデジタルデトックスで見えたもの

私はメンタルに不調を抱えながら生きている。
今はだいぶ回復し社会復帰できたが、一時期はベッドの上から動くことが出来ず、ただ泣くだけの日々を過ごしていた。スマホから離れたのは、その時のことだ。
その当時、上にも書いたように、ベッドの上で寝返りをうつ他はスマホをいじる事しか出来なかった。
しかし、インターネットというのは良くも悪くも様々な情報が流れてくる。
心が痛くなるような陰惨なニュース・社会への問題提起・誰かが非難されている光景・特定の誰かを集団で嘲笑する流れ…。
健康な状態なら流すことができたであろう出来事も、今は無視することが出来ない。
情報量の多さはさる事ながら、一つ一つの言葉がトゲトゲしく、その棘が深々と、弱った心に突き刺さる。
気がつけば私は、毎日のようにスマホから得られる情報に踊らされていた。そうして踊り疲れて、「なんでこんなことしてるんだろ」とぼろぼろ涙を零していた。
これではいけない、と思い立った私は、1日インターネットから離れることにした。
PCなども全てオフラインにし、友人たちには連絡に応じられない旨を連絡した上で、電源をオフ。
それまでスマホを触っていた時間は、全て読書などに当てた。
しかし、精神的に弱っている時期は活字を追うことが難しい。読書になかなか身が入らなかった。スマホの文字はあんなにスルスルと入ってくるのに、縦書きの明朝体はまったく入ってこないのだから不思議だ。
読書ができない時には、部屋の掃除をする事にした。
ベッドに寝転んだままでも、手の届く範囲の物を整理整頓したり、一つ一つをピカピカに磨いてみたり、ベッドの周りの床を拭いてみたり。
ひとしきり片付けたら、また読書に挑戦。
それでも読書に集中出来なかったら、今度は目を閉じて深呼吸してみた。いわゆる「瞑想」というやつだ。
自分の胸が上下する感覚に集中し、他の事を考えそうになっては、また呼吸の感覚に集中し直す。
そういう事を繰り返しやっていた。
退屈さを感じることはあっても、以前のように悲しい気持ちになったり、また激しく憤ったりもしなかった。不思議なことに、むしろ気持ちが明るく上向いてきて、少しだけならベッドから起き上がることができるようになった。
インターネットは、決して悪いものではないけれど、今の私にとっては毒だったのかもしれない。
そう思った私は、1日だけの予定をもっと伸ばしてみようと決めた。
それが2日、3日、とだんだん伸びていき、気がつけばスマホから離れた生活は3ヶ月ほど経過していた。
日々の瞑想が効いたのか、それとも退屈が体を動かしたのかわからないが、私の病状は少しずつ良くなっていった。
少し前まではトイレに行くことすらままならなかったのに、3ヶ月も経つ頃には日常の動作はなんなく行えるようになり、気まぐれに散歩に出かける日もあるほどになった。
そうした日々の中で、私はインターネットの情報との向き合い方について考えた。
以前の私は、外の世界に触れる方法がスマホのみだった為に、のめり込みすぎてしまっていた。
スマホの世界の全てが自分事になってしまっていた。
ネットに転がるトゲトゲしい言葉が、全て自分に言われているような気持ちになってしまっていた。
少し離れてみれば、陰惨なニュースも社会への問題提起も、全部抱え込んでしまう必要は無いと気がつくことが出来た。
イヤな流れから目を逸らして見れば、鳥のさえずりや日の明るさ…何気ない日常の風景にも、面白さを感じられるようになる。
今の鳴き声はスズメとは違うぞ、だとか、雑草は雑草でもそれぞれ葉の形が全然違うこと、アスファルトの一部分だけが真新しい黒色なこと、駅前も平日の昼間は一瞬しんと静まり返ること…。
スマホを触らない3ヶ月間を乗り越え、医師とも相談の上、今は以前と同じようにインターネットに接している。
以前と違うのは、私の心持ちだ。
何事も1歩引いて見てみると、少し呼吸が楽になるかもしれない。
今でもたまに、スマホを置いて散歩に出かけることがある。
賑やかなインターネットは楽しいけれど、身の回りの静けさも悪くない。
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