「なんで知ってんの?」幼い子どものような表情を浮かべ振り返った君

その頃は、今よりもそこまで、町々が綺麗なわけではなかった。
区画整備された街路樹も、モダンな佇まいの住居も稀なもので、そこらかしこに喫煙所があったし、吸い殻や吐き捨てられたガムが道端にへばりついていた。
まちなかに、今で言う「エモい」場所が少なかったからだろうか。
視線は自然と上を向いた。
あの頃の私たちにとって、「エモい」ものと言えば、空と、逆光で黒くなった電線くらいなものだった。
君と出会ったのは、そんな時代だった。
午後の授業が始まる前、真上から少し傾いた強めの日差しが、教室の窓から差し込んでいた。
カーテンにくるまっていた君は、唐突に振り返って、言った。
「肩甲骨ってさー、何からできたか知ってるー?」
誰かを試したかったのだろうか、それともただただ大声を出したかったのだろうか、授業前の、浮ついた教室に君の声が響いた。
まーたなんか意味わかんねえこと言ってるよ
ヤニ切れたの?大丈夫そ?
数人の男子がはやし立てて、君も
うるっせーよ
と言って笑い合っていた。
あはははは
あはははは
「肩甲骨は天使の羽根のあとってやつでしょ?」
私はわざと小声で呟いた。
浮ついた教室に混ざるように、わざと。
理由はいくつかある。
数週間前の体育祭の後から、不思議と私のお弁当の席はなくなっていたし、数日前に漫画(しかもちょっとアングラな)で仕入れた知識を大々的に披露するのが恥ずかしかったからだ。
そしてもし、だ。
君が教室をスクリーニングしたいのだとしたら、私の声が低周波であろうと受信されると踏んでいた。
私と君は、あの時確かに、試し合っていた。
その瞬間を覚えている。
振り返った君の顔は逆光ではっきりとしなかったはずなのに、今でも。
いつも気だるそうな目をしていた君が、まるで幼い子どものような表情を浮かべていたこと。
ポカっと開いた口から前歯が見えて、リスみたいな顔だなと思ったこと。
「なんで知ってんの?」
風に吹かれて広がったカーテンが、羽のように、見えたこと。
数日後に迎えた夏休み、君と会うことはなかった。
ブリーチ剤を付けたまま寝落ちして、髪がブチブチ切れるというようなメールがきても、私はなんと返信していいかわからない。
そんな連絡は彼女にすれば良いのでは…?と思いながら、何色になったのかわからない君の頭に思いを馳せた。
君のことが好きだった。
少なからず高揚感もあった。
小さく閉鎖的な日常において、私にしか触れられない君の部分、君にしか触れられない私の部分があると確信できる。そういった高揚感だ。
同時に、それでも私を選んでくれない君はずるいと思っていたし、選ばれていない私はひどく無価値なようにも感じていた。
私は「君が好き」と、言わない。
それが私に残された唯一の矜恃だと思っていた。
そして、関係性の具体化を迫らないことが、君とリンクできる唯一の方法だとも思っていた。
にも関わらず、私は何時でも、君の周波数を探していたように思う。
矜恃なんて、覚えたての言葉を使いたいだけの、ただの少女だった。
そのことを認められないまま、私はいくつの夏を見送ったのだろう。
夏休みも終わりに近づいた8月下旬の夕暮れ時。
土砂降りの雨が止み、重だるい湿度と共に、空が一面、赤紫色に染まった。
その毒々しい色は、瞬く間に町中を染めた。
電車からおりて家路を歩く人たちが、まるで模型のように見えた。
夏期講習帰りの私が目指す我が家も、なんだか薄膜を張ったみたいに現実味がない。
赤紫が、次第に赤黒くなっていく。
あーあ、私が帰りたい場所はどこだろう。
どこかに行ってしまいたい。でもどこにも行きたくない。
なんで知ってんの?
君の顔が浮かぶ。
別に隣にいるわけじゃないのに、君のことなんて、何も知りやしないのに、世界に2人だけみたい。
赤黒い空にガラケーを向けて、写メを撮る。
毒々しい色が、より鮮明になりますように。
浅ましい私が、なんでもないものになりますように。
「世界の終わりみたい」
写メを1枚貼り付けて送る。
直後、ブルっと携帯が震える。
あの頃は、今みたいに既読とかなくて良かったな。
逸る気持ちを抑えなくて済んだんだもの。
『俺も同じこと思ってた』。
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