私のコンプレックスは、運動神経が鈍いことだ。

どのくらい鈍いか。例えば小学校でドッジボールがあるとする。クラスの子が2人、それぞれのチームのリーダーになる。リーダーは、クラスメイトを一人ずつ、自分のチームのメンバーに指名していく。そのとき、最後まで残り、両チームから押し付け合いされるのが私だった。

ボールの受け渡しがあまりにできず、見かねた先生に、軍手をはめるというハンディをもらったこともある。逃げる方もダメで、一番にボールを当てられるタイプだった。

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私は小中と、田舎の、マイルドヤンキーが幅を利かせている公立学校に通った。そこでは、運動と喧嘩が強い子がスクールカーストの上位に君臨していた。当然、私は常にカースト最下位者として、いじめられながら過ごした。

小学校の頃は、休み時間は外でドッジが嫌で、図書室が避難所だった。しかし、当時の先生は、外で皆と仲良く遊ぶことが正義という感じだった。図書室の先生にすら、ずっとここに居てもいいの?という感じで、やんわり追い出されたこともあったけど、私はここで本を読む楽しみを覚えた。本の中に没入しているときは、つらいことも忘れられる。現実逃避といえばそれまでだが、逃避先を見つけねば、このつらい現実をどうしてやり過ごすことができようか。

中学になると、さすがにドッジはしなくなるが、どこかのグループに属してガールズトークをしなくてはならなくなった。私はできれば自分の席で本を読んでいたかったが、そういうポーズを取ることが、いじめを助長させることが分かるくらいには空気が読めたので、表面上は、「本? そんなの読むのは根暗だよね」という感じに、取り繕うようにしていた。人前で本を読むことは危ない、ということを本能的に知った。

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高校・大学でも、依然として、体育会系は文化系よりカーストは高かったが、「まぁ、いろんな人がいるよね」という感じで、それぞれが棲み分けていた。高校生になって初めて、私は本の話ができる友達に出会った。私は彼女を通じて、江國香織の小説に出会い、もし、この作家に出会わなかったら、私の人生はどうなっていただろうと思うほど、ずっと愛読している。

それまでの私は、運動ができないから、友人がいないから、とりあえず本でも読むしかない、という消極的な感じで、本を読んでいた。本を読むのは、スポーツも楽器も人間関係も、他に何も出来ない人がする言い訳のようなものだという劣等感があった。しかし、高校生のとき、きらきらした砂糖菓子のような言葉の結晶を味わう楽しみに目覚め、文学部で日本文学を学ぶまでになった。運動神経が悪かったことが、私のアイデンティティを形作ったのだと素直に思えたとき、私のコンプレックスは解消された気がした。

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ところで、先日、美容院でこんなことがあった。担当してくれたのは二十歳の、髪をコットンキャンディのような色に染めた子だった。私とはいかにも接点がなさそうで、何か共通の話題はないかと思案していると、彼女はおもむろに言った。「私、実はインドア派で、小説を読むのが好きなんです」と。彼女曰く、学生時代は就職に有利になるかと思って運動部に入ってみたが、本当は隠れ陰キャで肌に合わなかった、学校では朝の十分読書の時間がいちばん好きで、今でも仕事から帰って寝る前に本を読む時間が一番落ち着く、と。

私は自分自身の偏見に、深く恥じ入った。美容師さんは陽キャで、本を読んだりするのはダサい、と思っている人たちだと思っていたから。もしかしたら、彼女のように隠れ読書好きの人は案外いるのかもしれない。それを堂々と公言できる世の中だったらいいと思う。