恋とは、愛へと成長する見込みのないあやふやな情熱

二十代も半分以上が過ぎ、いよいよアラサーと呼ばれる年齢に差し掛かった会社員の私。とある知り合いの異性と、彼のマンションで飲んでいたときにそういう流れになってしまい、そこからそういう関係になってしまった。
彼は友人の友人ぐらいのなんとも言えない距離感の相手で、数人の共通の知り合いを交えて遊んだり、SNSで何気ない会話をしたりするぐらいの仲だった。しかし、私が仕事とプライベートの人間関係で同時に思い悩むタイミングがあり、その時に「あまり深くない関係性で、客観的なアドバイスをくれそうな人に話を聞いてもらいたい」と思い立って連絡してみたのだ。彼のマンションには以前にも行ったことがあった。飲み過ぎて終電を逃した際に泊めてもらったのだが、寝る場所は別々だったし、女に困り果てて急に襲いかかるような、不安定で下心のあるタイプでもなさそうだったので、今回も勝手に安心しきっていた。
だが彼は傷心中のアラサー女にとって、あまりにも寛大で包容力のある、魅力的な男性だった。私のまとまりのない仕事と友人への愚痴の言葉を丁寧に整理して、客観的なだけでなくポジティブな、でも根性論ではないきめ細やかなアドバイスと、シンプルでさっぱりとした励ましの言葉をくれた。加えて背も高く、ガタイも良い。いい歳をしてめそめそと泣く情けない私の頭を優しく撫でてくれたので、私はたまらなくなり、逞しく鍛えられた彼の広い胸に飛び込んだ。結局のところ、不安定で下心のあるタイプなのは私の方だったのである。
その日から私たちは、隔週ぐらいの頻度で一緒に夜を過ごすようになった。彼に会っているうちに、私は仕事にも以前より前向きに取り組めるようになり、気にしていた友人との距離もうまく保てるようになっていた。しかし私たちが会う場所は必ず彼のマンションで、時間はいつも仕事終わりの平日、たいてい終電ギリギリの深夜。そのあからさまなシチュエーションが、私が彼の恋人ではないということの自覚を強めた。
ある日の夜、私はふと彼に「最近合コンとか行ってる?」と聞いてみた。彼は特に面食らった様子もなく「来週行くよ。そっちは?」と答えた。私は「最近はないけど、そろそろ彼氏作らなきゃなとは思ってる」と言い、自分の心が非常に穏やかで凪いだ状態であることに気がついた。彼は屈託のない笑顔で「そっか。お互い頑張ろ」と言い、私をベッドの中で抱きしめた。私の心は変わらず穏やかなまま。…なーんだ。ただ寂しさを紛らわすために癒しを求めていただけで、私は最初から、大して彼のことなど好きではなかったのだ。そう気づいたと同時に、ほっとして眠りについた。
しかし次の日の朝突然、私はベッドの上で涙が止まらなくなった。寝息を立てている彼の広い背中に思わずぎゅっとしがみつき、頭の中でぐるぐると思考を巡らせる。昨日合コンのことについて自分から触れたのは、決して「なんで?俺たち付き合ってるじゃん」と言ってほしかったからではない。今の二人の関係を、気まずくならない程度に、ちょっと探りを入れてみようと思っただけだ。私たちが恋人同士ではないことを、傷つかない程度に答え合わせしてみようと思っただけだ。しかしこの涙の正体は、果たして本当に「好き」とは無関係だと言えるのだろうか。
彼の寝息のリズムが不自然であることに、私はすぐに気がついた。もうとっくに起きているはずの彼は、あの大きな優しい手で私の涙を拭おうとはしてくれない。残念ながら、これが答えだ。「その涙にまっすぐ向き合い、この関係にはっきりとした答えを出すつもりはない」という、彼なりの意思表示なのである。
それから、私が彼のマンションに行くことは二度となかった。愛へと成長する見込みのないあやふやな情熱の記憶を、人は仕方なく「恋」と呼んで美化するものなのだと気がついたからだ。
三十歳を目前に控えた独身フリーの私にとって、一過性の情熱を長く楽しめるほどの心の余裕は、今はあまりない。
かがみよかがみは「私は変わらない、社会を変える」をコンセプトにしたエッセイ投稿メディアです。
「私」が持つ違和感を持ち寄り、社会を変えるムーブメントをつくっていくことが目標です。
恋愛やキャリアなど個人的な経験と、Metooやジェンダーなどの社会的関心が混ざり合ったエッセイやコラム、インタビューを配信しています。