何かの拍子に名前を聞けばふわっと広がる彼の記憶と共に、私は生きていく
狂うほど誰かを愛したことがあるだろうか。
鼻先をかすめるプールの匂いに、眉をしかめるほどの蝉の声に、私を自転車の後ろに乗せて、急な坂道を駆け上がる彼の背中を思い出す。時の流れは記憶を余分に彩ってしまう。しかし、私にとって彼は記憶の中だけの存在ではない。ふと目にしたその姿に、息をのむように思い出す。ああ、私は確かに彼を愛していた。そして、いまもどこかで愛している。
彼とは高校の入学式で出会った。同じクラスで、同じ部活の彼に、私は一目惚れした。ほとんどストーカーではないか、と自身に対して思うが、毎日話しかけて、一緒に帰ろうと誘い続けた。その甲斐あってか、彼の家でそれなりに良い雰囲気になり、無事交際までこぎつけたのだ。
ただ、幸せな日々はあまり続かなかった。彼から好意を表されることは少なく、さらに交際直後に、私の友人のことが気になっていたと噂で聞いた。不安感を募らせて彼を問い詰めても、はぐらかされるばかりで、きちんとした答えはなかった。
また、私の両親はこの交際に大反対した。彼が父子家庭で、生活が苦しいから、駄目だと。差別意識むき出しの言葉に、底知れぬ嫌悪感を覚え、私は聞く耳を持たなくなった。ただ、私の親も負けていない。私にGPSをつけ、常に居場所を監視し始めたのだ。怪しいと思えばすぐ電話をかけてきて、電話に出なければ鳴りやまず、電源を切れば、高校を辞めさせると怒鳴った。
そんな中、私たちは、離れたり戻ったりを繰り返しながら高校卒業を迎えた。進学先は別々になり、彼は県外の、私は地元の大学に通うことになってしまった。今後、この関係をどうするか悩んだが、連絡も少なく、感情を表さない彼との未来を描けず、別れを決意した。
繁華街の片隅で、彼に別れを告げた。うん、分かった、程度の答えが返ってくると思っていた。違った。彼は大泣きしたのだ。私のことが好きだったらしい。今まで見たことのない泣き顔を前に、私は鳩が豆鉄砲食ったように固まってしまった。彼の気持ちに気付き、別れると決めたはずの気持ちが大きく揺らいでしまった。でも、彼は連絡すら寄越さないのだ。会う時もいつも彼の家。いい加減、不安と隣合わせの恋愛から離れて、「普通」の恋愛をしてみたかったから、好きな人ができた、と嘘をついて別れを貫き通した。
大学に入り新しい恋愛も始まり、有意義に過ごしていた頃、高校の部活の友人たちで集まろうという話が出た。数年ぶりに集まる友人たちの中に彼がいた。お互いどこか余所余所しさもあったが、変わらない空気感や、口癖、笑顔に、強烈な懐かしさを覚えた。彼に誘われるがまま、2人で飲み会を抜けて夜の街へと消えた。
将来を考えることもできないのに、惹かれ合い、お互い素直になれずにすれ違う。彼は、私が誰を本当に好きなのか分からない、と私の友人に漏らしていたそうだ。一方で私は、風に舞う落ち葉のような彼に、安心感を得ることができなかった。仮に、意を決して交際が始まったとしても、私の両親からの猛反対を食らうことになる。また彼は、浮気を許してくれる相手がいい、と平然と言っており、そんな相手とは「普通」の恋愛はできっこない。
離れることも、結ばれることもできず、曖昧な関係は2年ほど続いた。私は今まで「普通」の枠に嵌まれず、生きづらさを抱えてきた。だからこそ、「普通」の幸せが欲しかった。きっと彼とは「普通」の幸せは手に入らないだろう。
一方で彼は、「普通」はいらないのだ。私よりもきっと、彼には隣にいるべきひとが別にいる。2人ではそれぞれが思い描く幸せは手に入らないのだ。
そんな中、彼のことを好きなままでいいから、という物好きが現れた。未来のない束の間の幸せに疲れた私は、好きな人ができた、と2度目の嘘をついた。彼は冷たい目をしていた。
別れからもうすぐ10年だ。彼には、幸せであってほしい、死なないでほしい、生きていてほしい。欲を言えば、彼の隣は私がよかった。彼と紡ぐ未来を見てみたかった。
結ばれ、共に歩むだけが愛ではない。離れることが愛の最良の形になることだってある。相手の未来に自分がいないことを許す、それが必要になることもあるのだ。そう納得できたのも、ごく最近のことだ。
何かの拍子に名前を聞けば、声を聞けば、ふわっと広がる彼の記憶と共に私は生きていく。どこかで彼には笑っていてほしい。そしてたまに、私のことを思い出してほしい。

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