目立つ血管に集まる視線。「気がする」に呪われていた私

私は人より血管の色が目立つ。
冬になると気温が下がるせいか、緑色の血管がくっきりと浮き出て、まるでゾンビみたいな手になる。隠そうとしても限界があり、完全には隠しきれなかった。
もちろん、毎回のように指摘されたわけではない。けれど、不意に飛んでくる言葉は、私の心にまっすぐ突き刺さった。
「めっちゃ緑!」
「気持ち悪い!」
その声と一緒に響く笑い声は、いつまでも耳から離れず、恐怖のように残り続けた。
だから冬は嫌いになった。できるだけ手や足を見せたくない。そう思うようになった。
気にすれば気にするほど敏感になり、実際には言われる回数は減っていたのかもしれない。
でも私にとっては、たとえ一度でも百回分の傷になるほど痛かった。
自分を責めてしまうこともあった。
「なんで私は血管がこんなに目立つの?」
「何がいけないのかな?」
小さい頃の私は、本気で自分の行いが悪いからではないかと考え、原因を探していた。母に聞いたこともあったが、納得できる答えではなかったのか、今はその言葉をほとんど覚えていない。
最初は冬限定の悩みだった。けれど、気にする癖がついてからは、季節なんて関係なく、ずっと肌と自分自身で戦っていた。最初は言われた言葉に傷ついていたのに、次第に誰にも言われていなくても、視線を感じるだけで苦しくなった。
「見られている気がする」「思われている気がする」その気がするに、私はずっと呪われていたのだ。
自分でかけた呪いは、自分で解かない限り消えない。けれど私は、そのことに気づかず、自分を責め続け、自分を呪い続けていた。
ぐるぐる考え、考えた果てに、何に悩んでいるのか分からなくなり、頭の中はふらふらしていた。限界なのか、限界を超えているのかも分からない。言葉は刃物だった。
成長するにつれて、周囲から指摘されることは減っていった。けれど心の奥には、影のように不安が残り続けた。
みんなにとってはただの遊び、好奇心、面白半分。それが消えれば言葉も消える。そこに悪気はない。しかし悪気がないほど、扱いにくいものはなかった。責めることもできず、ただ怒りや悔しさとして、自分の中に積もっていった。
現在、私は二十歳になった。
今は全く気にしていないと言うと、それは少し嘘になる。けれど気にしていないというより、気にならなくなったという表現のほうが正しいかもしれない。それが心の成長なのか、ただの偶然なのかは分からない。けれど、不思議と気にならなくなると、かつての悩みがバカバカしく思えてくる。
あんなに苦しんでいたのに、悩まなくなった瞬間に「なんであんなに悩んでいたんだろう」と思えるのは、本当に面白いことだ。
今振り返って思う。
コンプレックスは、人が言うから生まれるもの。そして、自分が自分をいじめるから、生まれるもの。
もし自分を愛し、人を理解できれば、コンプレックスなんて簡単にチャームポイントに変わるのに。
だから私は思う。
同じコンプレックスを持つ人には、できればそれをコンプレックスだと思ってほしくない。 私は、同じように血管が浮き出る手を持つ人を見ても、なんとも思わない。だから、傷つく必要なんてないのだ。
私はあの経験を通して決めた。
絶対に誰かの弱点を笑うような人間にはならない。
その人を彩る花として見つめられる人でいたい。
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