本当に必要な支え、制度。持病のある私だからわかることがきっとある

「体力がないこと」にコンプレックスを持ち続けている。
運動苦手なのよ〜とかそういうレベルではなく、日常生活に支障をきたすレベルだ。これは、中学生の時から付き合い続けている持病からくる体力のなさだが、仕方がないとはいえ、体力のなさで悔しい思いや悲しい思いをたくさんしてきた。それでも支えてくれる人は多く、体力がないながらもなんとかやってこれた。他人は自分が思っているよりも気にしていないのかなと思っていた。
高校生の時だった。私は演劇部に所属しており毎日の活動に励んでいた。クリエイティブでやる気に溢れている部員ばかりで、脚本も自分で手がける部員も多かった。その頃は地区の大会に向けての台本選びの真っ最中。中学の時からの付き合いの同級生の部員も自作の脚本を提出していた。彼女は私の持病を知る仲でもある。
何も深く考えずに、私も脚本選考のために彼女の脚本を読んだ。主人公は身体に障害を持っており、そのために健常者であれば容易くできることができないという物語。すぐに私のことだとわかった。時代背景や性別は変えられているが、脚本の内容に加えて、その物語に寄せる思いや登場人物のバックグラウンドを聞けば聞くほど私のことだと思わざるを得ない。脚本の中で取り上げられる、障害を持つ人と持たない人の差。私を見る彼女の誇らしげな表情。ショックと怒りがないまぜになって腑が溶けるような思いがした。自分でコンプレックスに思うならまだしも、この体力のなさや病気を持っていることが、他人から見ても劣等感を持つようなマイナスなことに見られていたなんて。彼女とは中学の時から苦楽を共にする仲だっただけに、私はだいぶ落ち込んだ。彼女はずっと脚本を書きたがっていたから応援したかったけど、私は結局他の脚本に票を入れたのだった。
彼女のことはショックだったが、このことをきっかけに「体力がないこと、病気であることは本当にマイナスでしかないのか」ということについてもう一度考えてみようと思った。この時私は、自分と同じような苦しい思いをしている人を支えたいと漠然と考えていた。そうだ、苦しい、つらいと思ったことはたくさんあったけど、その分私は同じ境遇の人の気持ちがよくわかる。治療をする中で、もっとこんな制度があったらいいのにと思ったこともたくさんあった。それはきっと健康に日々を過ごせる人にはリアルには想像できないこと。私の経験が活きるチャンスかもしれない。そう思った私は進路を社会福祉に定め黙々と勉強した。周りの同級生よりも目標が決まるのが早かったと思う。
大学に進学してからは、体調不良に苦しむ傍ら、自主活動として就労支援の福祉施設にインタビューするなど精力的に動いた。コンプレックスが原動力だった。種類や程度は違えど、病気を抱える人は多くいる。病気による苦しい思いはしたとしても、それをコンプレックスに思うことはない、そんな世の中になればいい。25歳になった今も、その思いは私を奮い立たせている。
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