「自分がない」と言われた私が自己開示し、親友を作るまで

私は、親友と呼べる関係性は一つとして作れなかった。これが、私のコンプレックスだ。
兄が地元の中学でいじめを受け、転校したことをきっかけに、私は中学受験を決意。無事に志望校に合格したが、私の中高時代も、暗澹たるものとなった。
新しい環境で、友人を一から作ることは、小学校入学以来だった。
よし、明るく話しかけ、相手の話を聞き、良いリアクションを返そう。それしか、答えはわからなかった。
はじめは良かった。話しかければ応えてくれるし、顔見知りも増え、4月に暗黙の了解で出来上がるグループ形成時の波にも乗ることができた。
それでも、数ヶ月経つ頃には、グループの中で、私以外の友人たちが個別に交友関係を深めていることが多くなった。
仲良くなりたいと思ったけれど、アニメの話をするグループを見て、友人は一言、「きもっ」と言った。とても好きなものなんて言えなかった。
友人たちの話す話題に、「いいね!どこが好きなの?」と合わせつつ、相手の話を引き出すことで場を持たせた。
中学3年生のある時、同級生から、こう言われた。
「Aさんが、あなたのこと、いつもヘラヘラしてうざいって言ってたよ」
陰口の告げ口。一番傷つけるやつだ。
私の努力は無駄だったのかと、相手とわかりあう気持ちも消え、自分の本心を伝えることもやめてしまった。
高校1年生の秋。仲良しのグループの友人たちが、私抜きで、ディズニーランドに行ったことを知った時、悲しさと同時に、「やっぱりか」と思った。
それから数年後の社会人になったある時、中国人の同僚から、とあることを言われた。
「あなたには、自分はないの?」
強く頭を叩かれたような衝撃と同時に、恥ずかしさが込み上げた。
サラッと言った彼女の顔は、いくぶんか怒っているようだった。彼女の話ばかりを「うんうん」と聞く私に、苛立ちをぶつけたのかもしれない。合わせたことで、陰口は言われることはあっても、正面から指摘されたのは初めてだった。
そうか、「私について」話しても良かったのか。
これまで「興味を持ってもらえない」と決めつけていたけれど、本当は相手も私のことを知りたがっているのかもしれない。
同僚から、なにか気づかされた。
更に2年後、結婚を機にドイツで子育てをすることになった私は、最初の数ヶ月は、言葉の壁もあり、なかなか馴染めなかった。幼稚園の送迎時も、他のママたちが楽しそうに話している輪に入れずにいた。でも、子供のためにも何とかしなければと思った。
いかに孤立しないか必死だったため、現地幼稚園では教諭や、ママたちに積極的に声をかけた。中高時代の交友スキルを、ここで活かしていた。
しかし、同じことは繰り返したくなかった。
とある娘さんを3人育てる先輩ママに声をかけたことがあった。
「あの、良かったら幼稚園お迎え後、どこかで子供達を遊ばせませんか?お聞きしたいこともあって…」
緊張で手が震えたが、子育ての悩みを正直に話すと、彼女は共感してくれた。
一人ではない。
そう思えた時、異国の地が、自分の生活圏となった。
それから少しずつ、他のママたちとも話すようになり、自分のことを話せるようになるまで、半年はかかった。
先輩ママとは、お互いの家を行き来するようになった。
彼女の様子を伺いながら、友人関係を作るのに苦労している話を自己開示してみた。すると、彼女からは、「クールに見られるけど、悲しい気持ちや喜びが相手に伝わらない」という悩みを打ち明けてもらった。
心のうちを話し、受け取ってもらえた時は、グッと込み上げるものがあった。
本帰国が決定した時は、普段は涙を見せない彼女が、声を震わせて「寂しい」と言った瞬間、胸の奥が熱くなり、私も堪えきれずに泣いた。
それは出会って、わずか1年の出来事だった。
親友とは、短い期間でも作れるんだと知った。
友人ってなんだろう。
中高時代、私は相手に合わせることしかできなかった。自分を出すことで否定されるのが、怖かったからだ。でも、相手からすると「何を考えているのかわからない」と不安になるだろう。
自分を少し出した時、「いいね」と受け入れてもらえた経験が今の私を作っている。
でも、相手に合わせるコミュニケーションがあったから、深い関係を築くきっかけにもなったのだ。
中高時代のコンプレックスは、実は友人を作るための土台だったのだ。
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