子の発熱で早退を詫びる同僚、事務員を「女の子」と呼ぶ上司。行き止まりを感じた

私の信念は大きく2つある。
1つは、「教育の力を信じる」こと。
私の両親や親戚は、大学進学よりも手に職をつけることに重きを置いていた。
実際、4人きょうだいの内で大学へ進んだのは私ひとりである。
そんな私が高等教育に引かれるようになったきっかけは、中学校へ上がったタイミングでボランティアとして英語を教えてくれることになった近所のおじいさんとの出会いだった。
彼は定年まで日系航空会社で勤めたのち、趣味でイタリア語を始めたり、陶芸の作品作りに挑戦する、「教育を続ける人」だった。
彼から広義の「教育」を教えてもらうことで、今でも教育こそが人生を豊にするものだと信じている。
2つ目の信念が、「言葉(文字)の力を信じる」ことである。
ときに言葉が何も力を持たないこと、虚しく聞こえるだけのノイズとなることもある。
しかし、どれだけ行動で示したとしても、その姿をリアルタイムで目の当たりにできた人がいなくなった瞬間に煙のように消えてしまう。
その行動を語り継ぐ誰かがいなければ、記録に残す記号がなければ、世界を変えることはできない。
私が大学院に入って、真剣に論文を執筆する際に出会った本や論文の数々。
紀元前の哲学者の言葉が2000年以上経っても残され、そしてその言葉をこれまた数え切れない人々が紡いできた。
その瞬間瞬間を生きるのではなく大局として捉えることを可能にしたのは、まさしく言葉(文字)のおかげである。
そして言葉の力は、普段何気なく目にするインスタグラムのストーリーや、140文字で語られるXの中にも光り続けている。
そのような信念が、今の私をつくっている。
6年間の社会人経験の後に大学へ戻った私の前に広がった進路は2本あった。
1本は、学んだジェンダー視点の教育社会学を教育現場で実践する道。
もう1本は、より広いジェンダー社会学の視点をもって一般企業に勤める道。
私が迷わず後者の道を選んだのは、「教育の力を信じる」だけではなく「言葉(文字)の力を信じる」ことを同時に成し遂げたかったから。
未来の子どもたちが、幼いときよりジェンダー視点をもって世界へ出ていけるのであれば、長い目で見たときに社会は変わるだろう。
しかし、私が学校現場や一般企業で勤めたのちに28歳で大学に戻ったのは、行き止まりを感じたから。
子どもの急な発熱で申し訳なさそうに早退する同僚のママさんたち、事務員のことを「女の子たち」と呼ぶ上司…。
そして何よりも、そんな現実にずっと違和感を感じながらも、何も行動できない私。
社会学では、社会の最小単位は「個人」とする。
そしてそれは私を含む大人ひとりひとりである。
社会に出たときに感じる壁ー、これを壊さなければ、いくら多様性を知識として身につけた子どもたちでも、子ども時代に感じづらかった「権力」や「慣習」の前に平伏されてしまう。
そう、私のように。
だから私は子どもではなく、大学院で得た知識をもって、言葉を通して、大人ひとりひとり(社会)を変えたいと思った。
社会人5年目に偶然出会った「かがみよかがみ」では、社会への違和感を持ちつつ「言葉(文字)」を通して社会を変えようと奮闘している多くの女性たちに出会った。
実は私が大学院へ進む大きな理由付けとなり、いまでもずっと励まされている。
ここで文字を通して出会った、ある一種の同志たちは、「かがみよかがみ」という居場所を失ったあとも、どこかで活躍してくれるのだろう。
それでも、どうしてもこうした居場所があることに意味があったと思ってしまう。
この居場所が在り続けられないことに、またしても社会の壁を感じる。
また集まれるときまで、私も頑張るから、だから皆さんも頑張ってほしい。
違和感を言葉に変えて各々の記憶に記録した私たちは、その存在こそが誰かの「教育」になり、その記憶の中の「言葉(文字)」が社会を変えていく因子になるはずだから。
かがみよかがみは「私は変わらない、社会を変える」をコンセプトにしたエッセイ投稿メディアです。
「私」が持つ違和感を持ち寄り、社会を変えるムーブメントをつくっていくことが目標です。
恋愛やキャリアなど個人的な経験と、Metooやジェンダーなどの社会的関心が混ざり合ったエッセイやコラム、インタビューを配信しています。