「友人の死」を直視したくなくて、予定を詰む癖が強くなった
過去を振り返れば「これで良かったのか」と思うし、未来を見つめようとすれば「これからどうしよう」と思う。考えるのをやめようとすればするほど脳内会議の声量は大きくなり、現実逃避をすればするほど揺り戻しが大きい。ぜんぶ理解した上で、ここ数年現実逃避を続けている。
6年前に友人を亡くしてから、その悲しさや悔しさを直視したくなくて、予定を詰めこむ癖がひどくなった。涙が止まらなくなるのはいつだってひとりで何もしていないときで、誰かといて何かをしていればわたしは外面を保っていられるから、できる限り動き続けようとした。結果的に、今まで出会ったことのないひとたちにたくさん出会うことができた。圧倒的に質問が上手く賢いひと、自らの行動力で大人数を難なく動かしているひと、セーフティネットからこぼれ落ちそうになっているひと、こぼれ落ちた先でもがいているひと。社会はわたしが想像していたよりもずっと多様だったし、そこに生きる個人はそれぞれに眩しかった。感情を直視しないために生きていたら、別の感情に出会った。そして同時に、みんなが何かに向かって生きているように見えて、焦った。
むかし、わたしの夢は、もっと鮮やかに煌めいていた。運んでいる身体ごと投げ捨てそうになった時もどうにか抱え続けてきたそれは今、前ほどの輝きを放っていない。わたしにとって魅力的でなくなったということではなく、あまりにも日常になったのだと思う。しあわせなことだ。
一番最初に切実に叶えたかった夢は、もう叶わない。わたしは亡くなった友人を救えない。医学部に入っても夢は叶わないと知って、それでも彼女と約束したからと医学部に入った。医学部で過ごす時間は、語弊を恐れずに言えばとても楽しい。一瞬医学部に入ることが目的になりかけたわたしは、ラッキーなことにちゃんと医学も好きだった。医学を学んでいるうちに、医師となって誰かの命を救うという夢は、誰かの生活を支えるという夢に、少し性質を変えた。わたしが日々を生きていくために必要な変化だったと思う。そう思っていても、少しさびしい。わたしは一体何に向かって生きているんだろう。
友人が亡くなったときの悲しさも悔しさも、もう当時の鮮烈さでは残っていない。ふとした瞬間に思い出して、懐かしんで、ちょっとだけ泣きたくなるくらいだ。もう金星を見上げるたびに泣くことはない。こうやってわたしは感情を忘れていくけれど、「これからどうしよう」という漠然とした不安は常に湧いてきているから、これからも長い付き合いになりそうだ。わたしはわたしの感情を直視しないことはできるけれど無かったことにはできない。
きっとこれからも、どうにもならない感情はわたしの中に沈殿していく。ときどき波紋を広げながら、底に留まっていく。その上を少しずつ変化する夢を抱えて歩きながら、わたしは今日も予定を詰める。少しずつ、見ないふりの仕方を変えながら。逃げている間にも、世界は変わり、動き続けている。わたしもきっと、側から見たら変化しているんだろう。変わらない、変われないと思っていたわたしが、少しずつ変えられていく。できれば、できるだけ、良い方に。祈りながら朝に向かって歩く。

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