いつからか「元気」と答えると、自分の心が削れていくことに気付いた

社会人1、2年目の時、「元気?」と聞かれて、「元気じゃないです」と答えていた。
なぜ、そんな答え方をしていたのか。
初めは「元気です」と答えていた。私がそう答えるのには、裏にこんな気持ちがあった。

本当に元気だから。
元気ではないけれど、「元気です」と言って自分を鼓舞したいから。
変に心配されて、おおごとにしたくなかったから。
仕事もわからない、スキルも何もない新入社員なんて、元気しか売りがない。

「元気です」と笑顔で答えることで、仕事や社会に疲れた大人達が癒され喜んでいる顔に気がついていた。無意識にその期待に応え、自分の価値を感じようとしていたから。
ただ、いつからか「元気です」と答えると、なんだか自分の心が削れていくことに気がついた。

「本当に?その割には、なんだか顔が疲れていそうだよ?大丈夫?」
「そっか、元気ならよかった!じゃぁ、引き続き頑張ってね!」

相手は挨拶のように何気ない気持ちで、深い意味はなく、なんなら優しさを持ってそれらの言葉をかけてくれている。
そんなことはわかっていたが、少し前に巷で流行った「繊細さん」に恐らく該当する私には受け流すことが難しかった。

いつしか「元気じゃないキャラ」に甘えることで、心を守るように

いくら睡眠をとっても、コンシーラーで隠しても、目の下のクマが消えない私には、「顔が疲れていそうだよ?」という言葉はコンプレックスを指摘されているようで、その優しさをこめた言葉に心がズキっとした。

そして、何よりも、元気じゃない時に元気ですと小さな嘘を自分につき、相手が笑顔で去っていく姿を見ると、虚しくて自分の中で何かが削れていく音がした。
そこから、「元気?」という質問に「元気じゃないです」と答えるようになるまでに時間はかからなかった。

言い続けてわかったことがあった。
それは、元気を期待されないことは、いかに楽なことか。
ほとんどの人が「元気?」と声をかける時、そんなに長く話すつもりはないので、「大丈夫?あんまり無理しないでね」と気遣った言葉をかけて去る。

または、想定外の返しで思わず笑ってしまう人がほとんどだった。
ネガティブな言葉を発していることで、自分自身の印象や周りの人へいい影響を与えていないことはわかっていた。
ただあの時は、慣れない土地で人生初めての仕事を覚え、人間関係を作ることに苦労していた。

「元気です」と答えて食うダメージから自分の心を守り、「元気じゃないキャラ」に甘えることができたのは本当にありがたかった。

でも、言葉の力とはすごいもので、「元気じゃないです」と答えているとなんだか元気がなくなって、元気なのに元気がない理由を自分でも探し始めているような気がした。

ふいにでた「ぼちぼちですね」。なんだかほっとする言葉に出会えた

そんな日々を過ごしていたある日、関西出身の人が東京オフィスにきた。
生まれ育ちは関西圏ではないものの、身内が関西出身のため、関西DNAをしっかりと引き継いでいる私にとっては、その人と話をするのが心地よかった。
その先輩は、「最近どう?元気?」と聞いてきた。

私はせんべいをバリバリ食べながら、「ぼちぼちですね」と答えた。
普段、関西弁で話す時に「ぼちぼち」とはなかなか言わないので、自分でもその言葉が出てきてびっくりした。関西臭を出しすぎたかとも思った。
でも、そう答えた自分に嫌な気はしなかった。
その先輩は笑いながら、「ぼちぼちか。ええことやなぁ」と言った。

その日から「元気?」という声かけに対する答えだけではなく、私が周囲にメールを送るときには、メールの最後に「元気にやっていこう」や「頑張っていこう」から、「ぼちぼちやっていこう」に替え、「ぼちぼち」という言葉を使うようになった。

すると周囲からこんな言葉を聞くようになった。
「Imaiさんの『ぼちぼち』好きです」
「『ぼちぼち』のファンになりました」

元気と言うのも元気じゃないと言うのもなんだか疲れてしまう。
だけど、日々みんな一生懸命生きている。
そんな自分も周りの人も全部包み込める、なんだかほっとする言葉に出会えて、少し楽に生きられる気がした。

さぁ、今日も「ぼちぼち」やっていこう。