スクールでのエッセイ課題は赤字が多く「やっぱり向いていない」と感じた。だけど
 
			「エッセイ採用のご連絡」
飛び込んできたLINEのメッセージに感動し、私の顔はカッと熱くなった。
私の名前が載った記事が初めて公開された日のことを今でも鮮明に覚えている。2025年春。3.11をテーマに書いたエッセイだった。
そもそも私はエッセイというものにあまり触れずにライターになった。というのも、エッセイというものは、著名人や書き続けて有名になった人が書いて、初めて読者の心に響くものだと思い込んでいたからである。
まだ何者でもない私にとって、エッセイは難しかった。27年生きただけの、特別ではない私が書いた文章なんて、いったい誰が興味を持つのか。
そんな思いがあったからか、オンラインスクールでのエッセイ課題の評価には赤字の指摘が多く、「あぁ、やっぱり向いていない」と感じた。
しかし、機会は唐突に訪れた。尊敬する書き手の方がエッセイサイト「かがみよかがみ」について紹介したのだ。私は恥ずかしながら存在すら知らなかった。ぜひ初心者でも投稿を、と促されホームページに辿り着いた。
私がエッセイを近寄りがたい存在だと思っていたのは、自由度が低いと思い込んでいたからだ。だって、どうせ私の経験や主張をしたってそれは経験の押し売りにしかならない。そんなものはきっと読まれない。
もっと大衆受けする、キャッチーな言葉を扱えるようにならないとエッセイは書けないと思っていた。
しかし、私がエッセイに手を出したのは、その週に募集していた「あの震災の日から」というテーマにうずうずしたからだった。
震災当時中学生だった私は関東で被災した。
そして、熊本、胆振、能登と日本は震災が続いていた。私には思うところがあった。社会が局地的な震災に対して慣れてしまい、あっという間に報道も政治も見向きをしなくなったことだ。
どうしてもこのテーマで書きたい。しかし、採用されるだろうか。最初は投稿することのゴールが採用されることだと思っていたからそればかり気にしていた。
募集締め切りが近づくにつれ、私は自分の中に変化を感じた。
「採用されたいから書く」のではなく、「伝えたい思いがあるから書く」のではないだろうか。
そう思えた瞬間、私はPCに向かい、書き出していた。
今思えば、拙い出来ではあったが、採用/不採用など気にせず一心不乱に心の内をさらけ出したのは、あれが初めてだった。
私のこの文章で、読んだ人の心を変える。社会に変化をもたらす。驕りではなく、私なりの覚悟が文章に表れたのだと思う。
投稿してしばらくすると採用の連絡が来た。
私が今まで社会に感じていた違和感を初めて吐き出した記事が、採用になった。
私の言葉が社会に届く、私の言葉で社会を変えられる、そう背中を押してもらえた気がした。
エッセイは有名人にならなくても書けるものだと知った。私自身が変わるのではなく、社会に変革を与える問いを作り出すことができると感じた。
いきなり、エッセイが身近なものになり、私はエッセイ集を買い込んだ。エッセイ執筆の要点をまとめた本以外にも、有名な詩人・エッセイストの著書、そして「かがみよかがみ」に掲載されている作品たちを読み込んだ。
それぞれが自分の世界を持っていて、核があるのに、すんなりと私の心に入ってくることに驚いた。エッセイ執筆が簡単だと思えたことはないが、私にとって心の拠り所の1つになったことは確かだった。
その後も私は書き続けた。採用を気にしていたのは本当に最初の1回だけで、あとは「私が社会を変える」、「私の生きてきた世界を見て!」と叫ぶように書いてきたように思う。
そんな私の心の置き場である「かがみよかがみ」がなくなってしまうことに寂しさをおぼえる。
もう私は流されない。周りからどう思われるとかどう評価されるとか、そんなものは必要ない。
これからも私は私の心の声を叫び、文字にしていく。エッセイが私にくれた勇気を持ち続けてエッセイストとなる。それが、私が変わらず社会を変えていく1つの方法なのだ。
 
   
                    

かがみよかがみは「私は変わらない、社会を変える」をコンセプトにしたエッセイ投稿メディアです。
「私」が持つ違和感を持ち寄り、社会を変えるムーブメントをつくっていくことが目標です。
恋愛やキャリアなど個人的な経験と、Metooやジェンダーなどの社会的関心が混ざり合ったエッセイやコラム、インタビューを配信しています。