話すことばと親密だった私が、書くことばと向き合い、癒されたこと
はじめてエッセイを公開させてもらったサイト「かがみよかがみ」がクローズする。
本を読むのは得意じゃないけど小さな頃からエッセイだけは好きで、いつか漠然と書いてみたいと思っていた気持ちを現実にさせてもらう事ができた、本当にありがたい場所だった。
最後に、ことばを紡ぐことを叶えさせてもらったこの場所に、ことばと私の関係性について文章を寄せてみたいと思う。
私は、ここ最近まで話すことばと特に親密で、書くことばとは深く向き合うことがなかった気がする。
幼い頃から、どちらかといえば元気でおしゃべりが好きな子供だった。学校では友達とのおしゃべりに花が咲きすぎて先生によく注意されていた。やや声がでかいのか、私だけピックアップしてもらい注意されていることが多かった気がする。
そのくせ気は弱く変に繊細なところがあり、からかいの言葉や悪口など、棘のついた言葉には人一倍敏感で、ことばで傷ついた記憶もかなりある。
ことばとは、人を傷つけるものではなく、自分だけのオリジナリティというスパイスを効かせて周りの人を笑顔にするものでありたい。
これは、概ね昔も今も変わらず持ち続けている感覚だ。
おそらく小学生くらいの頃から、私はなるべく人にひと笑いを起こしたいという謎の芸人魂的なものを携えていた。それで、自分でつくった造語や少し捻りを加えた擬音などを用いるのが好きだった。時にはとぼけた声の調子なども織り交ぜながら、周りの人に笑ってもらえるとなぜかとても嬉しかった。
ただ、大人になるにつれて話すことばで消化し切れない思いが募っていくのを感じていた。
誰かに話して楽しい気持ちになってもらえないような、とりとめもない思い。些細な事で感じたやるせなさや人生に対する迷い。生きていることの苦しさや難しさ。ネガティブな感情だけではなく、わざわざ人に話す事でもないけど嬉しかった事。例えば飼っているウーパールーパーがあくびをした瞬間がみれた事とか、朝日に照らされた葉っぱがつやつや、きらきらしていた事とか、道を歩く犬の笑顔のかがやきとか。
話すことばは、音として人の耳に入るため、自分の思ったそのままではなくその瞬間に適切なことばを選びながら即興で繰り出していくものだと思う。
そこにしかないリズムとか面白さがあるけれど、そのリズムから取り残されて、自分の底の方にあるちいさなことばが、ずっと滞留しているような感じがしていた。
エッセイを書きはじめたころの私は、なんだか心がとても疲れていて、そんな時、日記を書いたり自分の感情を言葉にして書き出してみると良いというアドバイスをもらったこともあり、試しに文章をiPhoneのメモやノートに書き起こすことをはじめた。
あまり考えず適当に思いついた時に書き起こしていたが、それはそれは暗い気持ちを吐き捨てただけみたいなものもあれば、少しユーモラスにエッセイ的なタッチでエピソードを綴ったもの、かと思えば詩のようなものが走り書きがされているものもあった。
自分の中の揺らぎのようなものの大きさに気づいたし、何より話すことばから取りこぼされて心の底にあったものが、濾されて静かに浮かび上がってきたような気がした。
内側から癒され、慰められ、励まされる感覚があった。
外に向かって話すことばと、自分の内側と対話することで生まれる書くことば。
その両方ともが私の大切なものになった。
私は、ことばを手放すことができない。もしかしたら、ことばも私を手放すことができないのかもしれない。そうであったらいいなと思う。
私は変わらない、社会を変える。
「かがみよかがみ」のそのコンセプトにキラキラとしたものを感じつつも少しのプレッシャーのようなものを感じていた。
私のことばは社会を変える事があるだろうか。それは今でもはっきりとはイメージが湧かない。
それでもまずは自分が自分のままで生きていくために、ことばとこれからも、時にはリズミカルに、時にはじっくり丁寧に向き合っていきたい。
それでそのずっとずっと先に、誰かのなにかを変えるきっかけになる事がもしもあれば嬉しいなと思う。

かがみよかがみは「私は変わらない、社会を変える」をコンセプトにしたエッセイ投稿メディアです。
「私」が持つ違和感を持ち寄り、社会を変えるムーブメントをつくっていくことが目標です。
恋愛やキャリアなど個人的な経験と、Metooやジェンダーなどの社会的関心が混ざり合ったエッセイやコラム、インタビューを配信しています。