エッセイを書きたい。私が今できること、やりたいことだ。
だが、はたしてこんなちっぽけな個人に、およそ退屈で平凡な人生にいったい何が書けるのか。けれども私はずっと言葉にしたい気持ちを出せずに長いこと抱えて暮らしていた。

社会を変えるってどんなことだろう。今回のテーマをぼんやりと考えた。
自分が困っているときには変えてもらいたいことはいくらでも思いつく。ぜひお願いしたい内容がとめどなくあるが、いざ社会を変えるためにできることは何かと考えたらまったく何も思いつかず、言葉にならずに口をパクパクさせて空を見上げるだけであった。

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子育ても終わり、自分の時間に余裕ができたときに私はエッセイを書こうと思った。読書が好きだし、何かよくわからないが伝えたいことがムクムクと心の中にずっとあったからだ。 
思い起こすと忙しかったころの日々の中では、ムズムズと外に出たがっている言葉を見て見ぬフリをしてやり過ごしていた。あるときは料理を作りながらフライパンですべて炒めて忘れるようにした。あるいは仕事の疲れとともにシャワーで流した。日常の中に紛れさせて蓋をしていた。

だがそれできれいさっぱり消えてはくれない。そんなふうに誤魔化しても自分の思いや言葉は忘れたころにまたやってくる。モヤモヤとした感情でやってくるのだ。

それをどんな時にどこで吐き出せばいいのか。自分にとってのそのモヤモヤを吐き出すことによって、ひょっとしたら自分だけのためではない誰かの役に立つかもしれないのではないか。悩みや弱音の中にこそ誰かを救う言葉があるんじゃないか。あるときそんな考えが、私の目の前を風のように吹き抜けた。

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今日も弱音を吐いた、ああ、吐いちゃったなあ、情けないなあと、それだけでおしまいにしてしまうと、幼くて小さな社会からいつまでも出られない気がしてしまう。自分も救われ、誰かを救う。そんなことができると、広くて大きなところへ行けるのだろうか。何かしら方法はないのだろうか。そう考えた。

そうか、こういう時に文章を書けばいいのだ。そう思いついた。

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昔に比べて今では聞いてももらえなかったことがずいぶん受け入れてもらえるようになったりと、社会が変化しているのをはっきりと感じる。それは誰かがあきらめずに発信し続けたのだろう。
あきらめずにいればいつか誰かに届くのかもしれない。
エッセイではそれもできる。

今の私がエッセイに書くのはごく日常のことだ。
仕事や家事をして悩み、嘆き、怒り、笑うことが私の身近な社会だ。だが、それらがゆくゆくは大きなところへつながっている。

エッセイを書くようになって日常が濃くなった。言葉にする力はすごい。自分のダメダメなところも受け入れられるようになるとは驚きである。
文章を書くようになってからはストレスともうまく付き合えている。言葉にすることは素晴らしい。
そうやって自分に向き合ううちに社会を変えていく力に少しでも役に立つのだろうか。
これからエッセイを書き続けてその様子を見ていきたい。