妊娠報告に返された「いいね、3人目」。あの痛みが今の私を強くした
3人目の妊娠が分かった、24年前のこと。職場の上司に声をかけ、妊娠の報告をしたときの第一声は「あー、やっぱり。話がある、って言うからイヤな予感がしたんだ。私の時代じゃ考えられない。いいね、3人目の産休なんて」だった。
看護師という仕事柄、周囲への負担増も十分理解していたから、しばらく黙って夜勤もこなし、上司がシフト作成に入る前のタイミングを待って報告したつもりだった。
「本当にすみません」下を向きながら唇を噛んで、私は言葉を返した。
自分と同じこんな想いを、後進の女性には絶対にさせたくない。仕事を続ける私の、信条のひとつになった。
当時公務員だった元夫は、私の土日の勤務時に発熱した我が子でさえ義実家へ預け、親にも借金して口止めしながら毎日ギャンブルに明け暮れるような人だった。一緒に頑張ろうと約束したギャンブル依存症の治療は、「プライドが傷ついた」と早々に中断した。
義両親はそんな夫を、可哀想な息子だと言った。「産後は専業主婦として、先ずは家族を守りたい」という私の提案には、収入が減るからと夫に猛反対された。3人目の懐妊について夫は「自分は思い当たらないのに」とまで親の前で言い放った。私は離婚を現実のものとして考え始めた。
だけど、本当にこの先私ひとりの力でやれるのだろうか。心は揺れた。2人の子どもを連れて黙って一晩だけの家出をしてみた。
少し大きくなったお腹を抱えながら子の手を引いて歩く。はしゃぐ子ども達を見て「これからはこの景色、この先自分ひとり。覚悟できる?」と、心で自分に言い聞かせてみた。この日、父親でもある彼が私達を探すことはなかった。
夜、ホテルのベッドで眠る子どもの顔を見ていると、愛おしさと申し訳なさで、涙が止まらずにこぼれた。それでもこの子達と生きていくことへの決意は変わらなかった。
翌月、先の上司に退職を願い出た。家庭の事情も初めて伝えた。離婚の決意までは打ち明けなかったが、看護師長の彼女は涙を流しながら「いつも明るいから、あなたが家庭でそんなに重いことを背負っていたとは気付かなかった。師長失格ね、ごめんなさい」と言った。
今の私がとても不幸で不憫に見えたから、妊娠報告の時のあの発言も、ついでに「ごめんなさい」なのだろうか。目の前の涙を、少し冷めた気持ちで受け留めている自分がそこにいた。
3人目の出産後に離婚した私は、子育てでぶつかる様々な出来事に悩んで眠れない日も多かった。それでも正直に自分の立場を伝えながら、周囲の人に時に温かく助けられ、励まされて何とか進んでこられた。お金のことも大変だった。約束した僅かな養育費は、元夫が失踪したことで2年程であっけなく途切れた。
役場に何度か出向いてみても、「看護師だから」という理由で、最後まで公的な補助を受けられることはなく、古い医学書を売って得た少しのお金で今夜の食材を買った日もあった。
だけど。これらは、シングルの私に限った悩みなのだろうか?
時が経って今、育休の取得は特に女性にとっては当たり前のようになってきたけれど、この国の子育ては誰にとっても楽しく心豊かになるほど変化したのだろうか。子どもの貧困問題は、時代が変わり少しは改善しただろうか。
誰もが目の前の自分のことで、精一杯のようにも見える。
いつの間にか自分も誰かの上役と呼ばれるようになって、働く仲間の出産や子育て、介護や家庭の悩みなど多くの出来事にも触れ、相談を受けることもあった。ただ、職員からの「休んでしまい、すみません」の言葉を聞いたときには、私の目が少し鋭くなるらしい。
女性だからというだけで、社会から静かに預けられる様々な十字架。きっと、あの時私の上司だった看護師長もそれを背負って歩いていたのだろう。もしかしたら私なんかよりも、もっと重くて冷たいものだったのかもしれない。
そして今は、また、目の前のこの女性も。
「助けて欲しい、と声を上げ続けないと、こんな風当たりの強さはこの先もずっと変わらないままかもしれない。甘えっぱなしは良くないけれど、未来の子ども達の為にも『お互い様』が当たり前の世界を少しずつ広げていきたいですね」と、私は今日も変わらず伝えていこうと思う。

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