「もし、お前が受かったら、教室の全員が看護学校に合格できるなあ!」放課後の数学講習、初日のことだった。教壇で成績表を確認した担当の数学教師が、私を指差して張りのある大きな声で言った。クスクスと教室中の笑い声……。帰り道は悔しさと情けなさで涙が止まらなかったことを今でもはっきりと思い出す。

◎          ◎

高校は、市内で上から3番目程度のランク。本好きな私は昔から国語だけは少々成績が良かった。進路は当たり前のように文系のクラスを選択して楽しく学校生活を送っていた。高校年になった頃、母親が大きな手術をして、想像以上にうちにはお金がない、という事を理解した。実家は母子家庭、家事の殆んどは長女の私の役割になっていた。これをきっかけに改めて自分の希望してきた福祉大学について調べて胸が苦しくなった。

地元にはそもそも選べる大学自体が殆んどない。入学金や授業料、その上生活費…年の離れた弟2人を残して他県で進学したいなんて、この時の母親にはとても言い出せなかった。ネットはなく情報量も少ない。地元の友人は親の金銭支援を頼りに他の街へ進学していた時代。私の進学はもう諦めるしかなかった。地元での進学を望むなら、つほどある公立の看護学校のみ。看護師は幼い頃病気で父を失った私にとって気になる職業のひとつだったけれど…残念なことに私は成長するにつれ数学が鳥肌の立つほど苦手な科目になってしまっていたのだった。

父の仏壇の前で泣きながら半日座って考えた。「今さら理系なんか無理だよ…」「でももう決めるしかないんだ。悔いなし、と本気で思えるくらいに勉強するしかない」と覚悟が決まった。突然の進路変更は多くの人に驚かれたが、1年浪人するかもしれないけど頑張りたい、と周りにも宣言し看護学校受験を決心した。

◎          ◎

文系では聞くこともない、未履修の項目を学ぶため、理数科クラスに出向き放課後の数学講習に臨んだ。小テストの結果の酷さに驚いた教師から言われたのが「もし、お前が受かったら…」の言葉だった。
初日の講習後、この担当教師から呼び出しがあった。「お前、本気なら毎日この問題集をノートに写して解いてこい。間違いは昼休みに教える」と告げられた。そこからは、人生で度とないだろうというくらいしがみついて勉強した。昼休みは欠かさず職員室へ通って基礎から教わり、学び直した。厳しくても有難い指導だったと今でも先生には感謝しかない。少しでも長く机に向かおう、昨日より半ページでも多く問題集を進ませよう。1分の時間も惜しい気持ちで目の前のことに集中した。半年後、他市からの受験者で倍率15倍ほどの競争にかろうじて追いつき、看護学校に合格した。同級生の親友は、合格発表の日に私よりも泣いて喜んでくれた。

◎          ◎

あれから 30年以上、出産と育児休暇以外では1度も看護職を離れてはいない。結婚、出産、子育て、離婚、そして転職もあった。厳しい仕事の裏で、看護師としても人としても成長することが出来たのは、一人一人の患者さんから沢山の生きざまを教わってきたおかげと心から思っている。
いつか反抗期の我が子が「こんな勉強をしても将来役に立つとは思えない」とふて腐れたことがあった。「確かに学んだこと全てが実生活に現れたとは思わない。劣等感もある。でも『丁寧に向き合って理解できた時間』こそが私の考える力になっているし、仕事でも必ず誰かの役に立つと信じている。だから私は失敗も含めて、これまでの勉強はひとつも無駄になっていないよ」と話した。
不器用な私の「学び」は、結果として生きる糧の職業をまず私に与え、苦しい時は「やれば出来る」と進む勇気を呼び起こしてくれた。
いま3人の子どもが巣立ち、久しぶりの一人暮らし。自分の時間が増えて少しワクワクしている。ずっと憧れだった『女子大生になって学べること』が、次の私の「学ぶ目標」になっているから。