私は顔面を呪う。
なぜこんなにも不細工に生まれてきてしまったのか。

カワイイと言われたい!美人と言われたい!
とにかくチヤホヤされたい!
しかしそれにそぐわぬ顔面。

もう誰に何を言われても駄目。家族?友人?恋人?そこに親近感や贔屓目や遠慮が入るのは当然のこと。
よって、身内にどれだけ「可愛い」と言われても、そこに完全なる客観性が保証されない限り、顔面への呪いは解けないと私は思う。

顔面は「意思」だけで手に入る代物ではない

体型ならば努力次第でいくらでも変えることが出来る。少なくとも私の場合は。太ると、太ったストレスで物が食べられなくなるのだ。また、太ることで顔面に肉がつき、醜い顔面が更に醜くなることを想像すると、その恐怖で自然と箸もストップする。(と言いつつもダイエット自体はとてもつらい、当然のことながら)

しかし、体型に比べて顔面はどうだろう。マッサージ?エステ?カッサ?そんなものでは変わらない。切ったり縫ったりの大掛かりな手術でもしない限り、「美人」にはなれない。そして大掛かりな手術と美しい顔面は、ダイエットとは違い「意思」だけで手に入る代物ではない。金もかかるし術後の痛みもハンパでない。そして成功する可能性も100%ではない。

己の顔面を呪いながらも、手術に踏み出す勇気もない。こんな中途半端な顔面への憎しみは呪いとは言えないのではないか?と考えたこともあるが、やはり私が苦しめられている以上、呪いなのだ。

「嘘つきやがって!何が可愛いだ!ブッサイクだよバーーーカ!」

恋人に可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛いと言われるとする。
その一瞬は呪いから解放される。しかし家に帰って鏡をのぞけば、鏡が、現実が、「おかえりなさい」とニヤニヤ笑っているように感じる。

コンチキショウあの男嘘つきやがって!何が可愛いだ!ブッサイクだよバーーーカ!と、恋人の視力と頭の悪さと恋愛のアホらしさと一瞬でも「えっ私カワイイのかも」と思った自分、全部をぶん殴りたくなる。

なぜこんなにも顔面に執着するのか。
他人の顔面はどうでも良いのだ。ただ、自分の顔面が憎い。というより、自己嫌悪の全てを顔面のせいにしているきらいがある。ああ、たとえ手術して今より美人になったとて、私は私の顔面を呪い続けるだろう。

お世辞はいらない。互いの自己否定を肯定しあいたい。

そこで気づいた。
私は長年カワイイカワイイと言われることを夢見ては顔面を呪ってきたが、本当に欲していたのは、女子同士で「呪っている部分」を暴露しあって、シリアスに頷きあったり、違う見方を貰ったり、時にはギャハハと笑い飛ばしたりすることなのである。

というのも、「可愛い」という言葉は呪いを抱える者にとっては一時的な対症療法に過ぎず、根本的な解決はもとより、長期の癒しには決してならないことを痛感したからである。

SNSに頻繁に自撮りをアップしている友人達がいる。彼女達は「いいね」がつかない写真は消して、「いいね」が沢山ついた写真だけを残す。そうして「可愛い私」だけをインターネットの海に漂わせる。
自撮りを沢山アップするというのは、一見自分の容姿に自信があるからこそ出来る行為かのように思えるが、「呪いの界隈」においてはまったくの逆である。その行為の裏にあるのは、「自分が醜くて堪らない!しかしその事実を認めるのがつらい!誰でもいいから承認してくれ!かわいいんだと思わせてくれ!」という切実かつ悲痛な感情なのだ。

彼女達の気持ちは痛いほど分かる。「ブス過ぎて死にたい」とツイートした直後に自撮りがアップされるという一見矛盾的行為は、実は理にかなっているのだ。

またある日、気の置けない友人とこんな会話をした。

「私はここが気になる…整形したい」
「あー、確かに言われてみれば…でもそんな気にするほど?全体で見たらそんな気にならないけど。それよりここのパーツが綺麗じゃん!私はここがヤバいから整形したい。」
「え、着目したことなかったわ、確かにこのパーツはコンプレックスではないな。ありがとう。え、そこ?へぇー、考えたことなかったわ。それも言われてみればって感じ。」
「いやほんとやばくて。これさえ無ければ」
「わたしもここが憎くて。これさえ無ければ」
「うざいね」
「焼き払いたいね」

とても楽しかった。否定するでもなく、ただ「へー」と受け止めあって、他の良いところを見つけあう。客観的な意見を言い合う。(もちろん、友人ゆえ互いに100%俯瞰し指摘することは難しいが)。カラオケルームでキャッキャと、スマホ片手に鏡を見ながら少しでもマシにする方法を調べていた。

自分の粗は自分が1番よく分かっている。他人にどうこう言われたってコンプレックスは揺るぎない。それなら互いの自己否定を肯定(傾聴)し合いたい。

それが一番のカタルシスであり、顔面への呪いが話題に、自己嫌悪が相互理解に変わる瞬間だと私は思う。

呪いは解けない。
解くのではなく、手懐けるのだ。