誰にでも記憶に残る味、思い出の味というものがあるのではないだろうか。私にとってそれは幼い頃に祖母と食べた「トマトの味」である。もちろん他にも心に残る味はたくさんあるが、毎年夏が近づくと昔の記憶が呼び起こされ、食べてもいないのに舌の上に思い出の味が蘇る。

幼い頃、私は採れたての野菜を食べて育った

 私の祖父母は京都と滋賀と奈良の県境にある南山城村の更に山奥に住むトマト農家だった。保育園児の頃から夏休みになると祖父母の家に行き、一夏を過ごした。私の遊び場は、畑に田んぼ、そしてトマトが植えられたビニールハウスだった。

夏場のビニールハウスは燦々と照りつける太陽の光を室内にため込み、足を踏み入れた途端ムワッとした熱気が身体を襲う。その熱気に交じり何ともいえないトマトの青臭い匂いが鼻腔を駆け抜ける。私はトマトの匂いが大好きだった。

 祖父母はトマト以外にもきゅうりや茄子、スイカなども栽培していたので、採れたて野菜で作ったご飯を食べて私は育った。特に採れたてのトマトやきゅうりにそのままかぶりつくのが野菜の水々しさを感じられて美味しい。東京へ来てからはスーパーの惣菜コーナーで20時になるのを待ち、値引きシールが貼られた惣菜を買う事が多く、たまに自炊をしても野菜は火を入れるなど調理をしてから食べる事がほとんどだ。そのことを思えば、幼い頃の私は食に恵まれていたと思う。

祖母の真似をして、小皿のソースをペロリと舐めて食べきった

 夕食には様々な料理が大皿に盛られて出てきた。もちろん祖父自慢のトマトも食べやすい大きさに切られて生のままガラスのお皿に盛り付けられている。そのまま食べても美味しいし、塩につけても美味しい。ただ、私にとっての思い出の食べ方は、マヨネーズとウスターソースを混ぜた特製ソースをトマトにたっぷりつけて食べるというものだ。少し酸味のあるウスターソースにマヨネーズのまろやかさが相まって、甘味のある美味しいソースが出来上がる。健康的ではないジャンキーさのある味が好きで、私はいつもトマトにこのソースをつけて食べていた。

 祖父母の家では、ご飯を残さず全部食べきるという方針だった。戦争を知る祖父母だから、食の有り難さを教えてくれたことに感謝している。特に祖母はソースも残さず食べきる人だった。祖母も特製ソースの味が好きだったのだろう、トマトを食べた後、小皿に残るソースがもったいないと言って、舌でペロッと舐めとったのである。驚きを覚えたものの、確かにソースも食べ物なのだから食べ切らないともったいない。祖母を真似して、3歳の私も同じように小皿のソースをペロペロと舐めソースを食べきるようになった。

私にとってはそれが当たり前だったのだが、どうも世間的にはお行儀が悪い行為だったらしい。夏休みの終わりに母親が私を迎えにきた時、夕食の席で祖母と私が小皿のソースをペロペロ舐める姿を見て、「お行儀が悪いからやめなさい!」と小皿を取り上げた。私が真似をするからやめてと、この後祖母はこってり母親に説教をされていたのである。

背徳感というスパイスが加わったソースは、さらに美味しかった

 母親に叱られたのを機に、祖母も私も小皿を舌で舐めるのはやめた。いや、正確に言うと「母親の前で小皿を舌で舐めるのはやめた」になる。両親が共働きだったため、基本的に夏休みは祖父母の家に一人預けられ、お盆が明ける頃にお迎えがきて家に帰るという慣習ができていた。つまり、日頃お小言を言う母親は居ない。一応幼心に舌でお皿を舐める行為がお行儀が悪いことだと認識していたので、家族以外の人がいる場ですることはなかったけど、小言を言う母親が居ない、つまり祖父母と私の3人だけとなれば話は違う。

 母親に怒られた翌年の夏、4歳の私と祖母は例の魅惑的なソースがのせられた小皿を前にして、お互いに目を見合わせた。祖母が「内緒な」と悪戯を思いついた子どもみたいにニヤッと笑いながら言ったかと思うと、豪快に舌でソースを舐めとった。一瞬呆気にとられたものの、私も「内緒」と言いながら思い切って舌でソースを舐めとった。

その日口にしたソースの味はいつもと一味違っていた。母親の言うことを聞かずに悪さをしている背徳感というスパイスが加わり、更にソースが美味しく感じられたのだ。因みに祖父は呆れた顔をして、祖母と私の悪事を見過ごしてくれていたのである。

今年は特製ソースを作ってトマトを食べてみよう

 さすがに29歳にもなって、舌で舐めとることはしなくなったが、夏が近づくと特製ソースがたっぷりついたトマトの味が口の中に蘇り、また食べたくなるのだ。思い出の味がトマトなのか特製ソースのどちらなのか分からなくなってくるが、あくまでトマトにつけるから特製ソースの味が際立ちおいしくなる。

 梅雨が明ければ夏真っ盛り。今年は特製ソースを作ってトマトを食べてみよう。そして、トマトを食べ終えた後のソースはもったいないので、舌ではなく指ですくって舐めてみよう。なんせ1Kの気ままな一人暮らし。見ているのは写真立ての中にいる祖母だけなのだから、また「内緒な」と言って笑って許してくれるだろう。