かわいい。私はかわいい。
私は昔から「愛嬌があってかわいい」と言われてきた。
飛び抜けた美人ではないが、人一倍大きい目をキュッと細め、丸いほっぺたを押し上げて作る笑顔は、ずっと私のセールスツールだった。
「女の価値」はクリスマスケーキと同じという説…確かに否定しがたい
もうすぐ26歳。
そろそろ自分のために“かわいい”は、捨てた方がいいと思っている。正確には、もう“かわいい”にしがみつくのはやめたい。
よく分からないけど、女の年齢をクリスマスケーキに例える話がある。クリスマスケーキは、12月24日のクリスマスイブが一番よく売れる。そして、25日のクリスマスを過ぎると、あっという間に無価値になる。心底、馬鹿馬鹿しいが、否定はし難い。
私は、都内で働く営業職3年目。コロナの影響で、在宅勤務の日々。時々出社しては、1年目の新入社員の爽やかな挨拶にたじろぐ。「そういえば、私もあんなに元気よく挨拶していた頃もあったな」と思いながら、昨日の仕事の続きを淡々とこなす。変わらないルーティン、分からないことはもうない。
夜。化粧を落とす前に、じっくりと鏡を見る。すると、疲れた目をした私が、こちらを見ている。ほうれい線には、よれたクッションファンデの筋が1本。目の下のクマと小さく縦に入るシワたち。もうメイクをする時に、キラキラの大きめのラメも、鮮やかなサーモンピンクカラーも使わなくなった。
私は「かわいい」をいつか手放す時が来ることに気がついていた
若くない私は、かわいくない。
きっと、私はもう十分、自分の“かわいい”を使い切った。
19歳大学生の頃から“かわいい”を、いつか手放す時が来ることに気がついていた。そこはかとない不安の中で、私はとにかく貪欲だったから、これを使い倒そうと思っていた。自分が欲しい経験や、会いたい人に会うために。
20歳で不倫をしていた時、相手の男が「妻の目元にシワができててさ、この子も若くないんだと思ったんだよね」という話をしていた。その隣で若かった私が、そんなこと自分には関係ないという顔で聞いていたのを覚えている。
そうして、その後、当たり障りのない小さな出版社に就職した。
出版社といえど、部署はセールスチーム。真夏にノンアポの飛び込み営業でしごかれていた。やり方も分からず、頼る人がいなくて、どうしようもなくなった時、1度だけ自分の“かわいい”を使ったことがある。
「目がかわいいね」「僕もビール好きだからさ、今度」
分厚い手が、ブラックスーツの太ももの上を滑る。私は、私のかわいいが薄汚れていくのを横で見ていた。
若い頃の私にとって「かわいいのチカラ」は大きかった。これからは…
こうして20代前半私の“かわいい”は、良くも悪くも自己肯定感と安心感を与えてくれていた。
そして、25歳の今、薄れかかった“かわいい”がなくなる不安に、溺れそうになっている。私には、かわいいがなくなる前に、別の何かが必要で。でも、それが何かが分からない。
かわいくないと、キラキラのアイシャドウを下まぶたに付けれない法律なんてない。それでも私にとって、“かわいい”の力は大きすぎた。
どうしたらいいの。
私の物語は、“かわいい”を捨てた後の方が長いのに。