容姿は、精神の容器だ。 

容姿には、自由に感性を注ぎ込める。それが器でしかないからこそ、私が納得するならば何をしても良いと思っている。私自身の優しさや憎しみと比べたら、そこまで重要ではないのだ。

髪を緑色に染めたいし、耳の軟骨にピアスを開けたいし、下乳の誰も見ないような位置にタトゥーを入れたい。固有な器の中に、もっと生々しく私らしく激しい感情を持っていたい。

ロリータ服に口ピ、制服に薄化粧。中身は同じ、容姿なんて使いよう

ロリータ服に身を包み、大学に通っている同級生がいた。まち針のようなピアスを唇につけ、周囲に鋭い視線を浴びせながら、いつも足早に移動していた。彼女は好き勝手にやることで、必要以上に干渉してくる他人を退けていた。しかし、彼女のアルバイト先のファミレスに遊びに行くと、規定の制服に身を包み、薄化粧でピアスも外した彼女が、接客用の笑顔でてきぱきと働いていた。同じ容姿のはずなのに、使い方が違うだけで、随分印象が違う。でも、中身は同じ彼女なのだ。

反対に、同じ真っ白なマグカップでも、コーヒーを朝に飲むのと、横着してウォッカを注いで寝酒をするのとではまるで意味が違う。容姿は人間の価値を決めるものではなくて、使いようなのだ。容器に注ぐ液体による意味付けの方が、余程大事である。

バリ島で働く男の子に教えてもらった、私の中の容姿への偏見

それでも、容姿で判断される機会があまりにも多すぎる。しかもこの場合、誤解が多い。大学時代に卒業旅行で訪れたバリ島で、レストランの従業員の男の子に私が持っている偏見を諭された。

バリ島ではレストランの従業員もマリンアクティビティのインストラクターも同年代の男の子たちで、大抵彼らは陽気で、慣れない日本語のチャーミングさを熟知して話しかけてきた。そんな男の子たちは結構な割合でタトゥーをしており、田舎者っぽい感じがしていた。私は悪気なく、レストランの従業員の一人に「タトゥーしてるね」と聞いてしまった。彼は賑やかだったのに、一瞬黙りこみ、じっと自らの腕の紋様を見つめた。

「タトゥーは自分たちにとってはまじないで、共に人生を歩んでいくものだ。日本人がよく言うような、ガラの悪いものではない」

彼の真摯な言葉に彼の中身を見て、思わず恥じ入った

流暢な日本語ではなかったはずだが、彼の気持ちがすっと入ってきた分、私の中では明瞭な響きを持って残っている。

「知ってほしい」という切実さのある口調だった。各国タトゥーには、様々な意味合いがある。容姿だけで他人を判断するのはあまりにも安易だ。容器の中身である彼の真摯な言葉の発し方は、私を恥じ入らせた。そして、通念的な意味合いや他人からの求めに応じるのではなく、私の信じるものに基づいて、容姿を作り上げていきたいと思わされた。

最後に、私は髪を緑色に染めたことがないし、耳の軟骨にピアスを開けたことがないし、下乳の誰も見ないような位置にタトゥーを入れたこともない。それでも、いつか、そんな風に容姿を誰かのためでなく、完璧に自分のためにクリエイトすることを思い描くのが、私にとっての幸福な時間なのだ。