「顔でかっ!」
あまりに不意打ちで、私は硬直してしまった。それでも何事もないようにキスをした。「今何て言った?」と聞き返す間もなく、その言葉は塞がった口の中に留まり飲み込まれた。こんなに痛々しいキスは、この先ない事を願いたい。

私はどうやら、顔が大きいらしい。中学生の頃、顔が大きいことを売りにしたものまね芸人がブレイクし、よく似ていると言われた。私は休み時間に全力で、彼女のモノマネをした。でしゃばりすぎず、モノマネの依頼が来た時だけノリよく答えることが、クラスで生き抜く術だと思い込んでいた。

昔の私は、誰かをからかう事は「いい空気」を作ることだと信じていた

そんな中学生活を送るうちに、私はよく他人をからかうようになった。自分ならからかわれても笑いを生む、だからからかう事は、“いい空気”を作ることだと信じていた。その笑いが何を指差していたのか、よく考えもせずに。本心では分かっていたのかもしれないが、自分の居場所を守るため、その場凌ぎで気づかないふりをしていたと思う。分かっていても、その笑いのとり方がテレビや私の生活圏内でも主流だったので、こんなものだと思っていた。

他人の容姿や仕草を嫌に誇張してマネをしたり、人の不器用なところを笑ったりした。みんなも笑った。先生からは「あなたが人を馬鹿にする人だなんて思っていなかったです。とても悲しい。」と言われた。私が封をしていた惨めさや泣きたかった本当の気持ちは、排出されないまま一生解決のしない便秘のように重く溜まっていった。

高校生になって「顔がでかい」なんて、誰にも言われなくなった。毎日を安心しきって過ごしていた中での、例のキス直前の彼の言葉。結局、彼とは良い関係を築けず、別れた。それからキスをする時、特に初めての時はその度に「顔でかっ!」なんて内心思われていないだろうかと不安になった。

鏡に顔を近づけ、じーっと観察をしても、この顔が大きいのかよく分からなかった。鏡に映るのは私一人。他に比べる顔はない。彼の目に映っていた私もそうだったはずなのに。その後、他の男性たちにも「えらを削る手術をすれば」「この顔の大きさはどうにもならないね」と口々に言われた。

あるアーティストと出会いが、傷つく言葉から私を解放してくれた

そんなに、そんなに大きいのか。私の顔の大きさは、私を魅力的に見せない要素を持っているのか。投げつけられる言葉に、一瞬ひるんでも笑った。本心をさらに深く押し込み、彼らの期待通りのリアクションをした。いつだってヘラヘラと身の回りに起きる色々を自分ごとにせず、その場の空気のことばかり考えていた。

私自身も“太っている”フィルターや“美人”フィルターを通して、周りの人を気づかぬうちに見ている事があった。そんな自分にがっかりすると同時に、周りの人も“顔がでかい”という負のフィルターを通して、自分の全てを見ていると思い込み、疑心暗鬼に陥っていった。今となっては「ラブマイセルフありのままで」と表立って言えるようになり、大分楽になった。

あるアーティストと出会わなければ、この状態には辿り着けなかったと思う。彼女たちは、容姿に関する固定観念に一石を投じて、パワフルなサウンドで勢いのあるメッセージをいつも届けてくれる。そのバンドの音楽には、“かわいい”の固定観念からはみ出したコンプレックスも、全部愛おしいと感じさせてくれる優しくて強い力がある。

小学生のプールの授業で太ももが太いとクスクス笑われたこと、傷つきながらもデブと言われて笑っていたこと、キス直前に顔がでかいと言われたこと。彼女たちの音楽は、今まで抱え込んできたナンセンスで、誰も幸せにしない言葉から私を解放してくれた。

だから、私まで自分を卑下していたら、それを聴いている人も、同じコンプレックスを持つ人も悲しくなるかもしれないし、元々顔の大きさを気にしていなかった人も気にするようになるかもしれないと思うようになっていった。

なぜ「容姿」について評価され、苦しまなければならないのか?

でも、まだ足は震えているし、気持ちは揺らいでいる。顔のラインがスッキリすると、やっぱり嬉しくなってしまう。顔が小さい私を誰が求めているのだろう。「顔がでかい」と言ってきた人たちか、それとも私自身か。「顔がでかい」という言葉を貯めこみ続けた私は、高校生の頃から自分の顔に筆で詩を書くようになった。のびのびと筆を運ぶことができるこの広大な顔を、私はなかなかに気に入っている。

そして私は「顔がでかい」と同じくらい「肌がきれいだね」とよく言われる。でも、今のアイシャドウがよくのるピチピチのお肌を讃えられても、今が人生のピークだと刷り込まれているようで。何度も同じ部分をカッターで、切りつけられているようなキリキリとした感触がある。

祖母は、若い頃の写真をいつも目に入るところに飾っている。「綺麗でしょ」と紹介されたその写真には、おばあちゃんの面影のある一人の女性が歯を見せずに笑っていた。

私はいつだって自分自身も、他者も愛しいと思って生きていきたいし、それができればとても幸せだと思う。なぜ容姿について評価され、苦しまなければならないのか。

容姿に問題がある女は、嫁にいけないという価値観の元、傷物にならないよう母親世代の人たちは、私に気を遣ってきてくれた。いつ何時でも性的な目で見られ、抵抗しないだろうと思われれば容赦なく性暴力の被害にあう。電車であからさまにスカートの中を覗いていた真向かいに座るおじさんは、私が怒らないとでも思ったのだろうか。

いつだってニコニコと愛想よく理不尽を受け入れるよう強要され、声をあげることを妨げられてきた。愛嬌や美貌がなければ、失格の烙印を押されてきた。私はいつも何かを蹴りたい衝動とともに生きている。