パステルカラーのカーディガンやニットのセットアップ、ブラウス、形のきれいなスカート、そして脚をきれいに見せるためにぴったりのヒール靴。髪は、きれいなブラウン……。約1年ぶりに観た日本のテレビには、私の記憶と変わらない“女子アナ”たちがそこにいた。
私は2019年秋にイギリスに移住して以降、日本のテレビを観ることはほとんどなかった。また、イギリスではテレビを持たない生活をしているため、イギリスと日本のニュース番組を詳しく比較することはできない。
それでも、1年ぶりの一時帰国で観た日本のテレビに映る彼女たちは、やはり私の覚えている“女子アナ”そのままだった。
日本では「女子アナ」は、コンテンツ化・消費されているように感じる
もちろん、すべてのニュース番組がそうだとはいわないが、たいてい、女性アナウンサーたちはメインの男性アナウンサーの補佐的なポジションにいる。常に笑顔で、慎ましく。私は、女性アナウンサーが嫌いだというわけではない。個人的に素敵だなと思う方も何人もいる。
もちろん、その職業を否定するつもりもない。以前見た、アナウンサー養成スクールに通うたくさんの学生の一生懸命な姿も鮮明に覚えている。ただ、テレビを観ていると、どうも女性アナウンサーたちが“女子アナ”としてコンテンツ化され、消費されているように感じるのだ。
私は関わったことがないため、メディアの内実はわからないし、当事者でもなく、海外在住の人が想定の範囲で意見を言ってもいいものか自信はないが、一視聴者として、私が感じたモヤモヤの正体や原因を考えてみたい。
冒頭にも述べたが、女性アナウンサーがメインのニュース番組は、まだまだ少ないのではないかと思う。イギリスでテレビを持たない生活をしているため、ニュース番組を観るときはYoutubeで観るくらいなのだが、女性キャスターが一人で番組を切り盛りしている様子も男性キャスターの場合と同じくらい見かける。
「世の中の女性はかくあるべし」と、強く言われているような気がする
一方、特に日本の朝のワイドショーでは、女性アナウンサーはメインのアナウンサーの補佐的なポジションにいて、常に笑顔でときどきイジられる……。そんな彼女たちの“キャラクター”から、服装や髪型などの見た目も、だいたいどの局も同じに見えるのだ。テレビ局に詳しい方からすれば、局によってアナウンサーの特徴の違いなどはわかるのだろうけれど、素人の私にとっては、どの局の女性アナウンサーも似たり寄ったりに思える。一律に見えるからこそ、私はそれが「世の中の女性はかくあるべし」と強く言われているような気がしてしまうのだ。そこに、私は息苦しさを感じる。
もちろん、アナウンサーになりたいという女性たちの思いや、非常に高い倍率のなか実際にアナウンサーになった人は、見た目の美しさだけではなく、知性があり、機転が利き、頭の回転も速く自立した方々なのだろう。だからこそ、そんな方たちの個性が殺されないようになってほしい。意見が尊重されるような風土になってほしい。
実際、今の状況を考えれば、女性アナウンサーが自身の出演するニュース番組で少しでも自分の意見を述べれば、それがインターネットニュースで話題になったりしている。それくらい、彼女たちが意見を言うことは“めずらしく”、“驚くこと”なのだ。
性的な目で見られるために、働いているわけではなないだろう…
また、以前私が好きな女性アナウンサーをインターネットで調べた際に、検索ワードには、身体のパーツに関する言葉や、目を覆いたくなるような卑猥な言葉が並んでいる光景も目にした。映像を伴うテレビに出演する以上、容姿のことを話題にされるのはある程度仕方がないことなのかもしれないが、それでも、これらは実際に彼女たちが“女子アナ”というコンテンツで、世の中の人々に消費されていることの表れではないだろうか。
当事者ではないため、彼女たちの思いを代弁することはできないが、それでも、少なくとも、性的に消費されるためにアナウンサーという職業に就いているわけではないだろう。アナウンサーは、テレビ局という会社の会社員であるから、すべてがすべて自分の思い通りに行動できるというものでもないだろう。
しかし、彼女たちがどういう存在でありたいかという根幹の部分においては、当事者の声が反映されるようになってほしいと願う。