我が家のアイドルである黒柴のくーちゃんは可愛い。
散歩に行くとおばあちゃんに「まあ可愛いねえ」と声をかけられ、学生たちに「柴犬だ!可愛い」と言われ、よちよち歩きの幼児に「わんわん!」とまさに老若男女に可愛いと愛でられている。
そして母は私に冗談ではなく至極真面目な顔で言う。「くーちゃんは毎日毎日生きてるだけで可愛いって言われるけど、しずくが今までの人生で可愛いって言われた数はそれ以上だね」と。
そして私もまた冗談ではなく思う。「まあそうかもな」と。
私は小さい頃から周りに「可愛い」と言われて生きてきた。両親や周りの友達に恵まれて育ったおかげで、私の中の自分の容姿に対する自己肯定感はかなり高く築きあげられたと思う。
大人になった今でも、ありがたいことに「美人ですね」や「綺麗ですね」と言ってもらえる機会が多い。
両親からもらった自分のこの顔を褒めてもらえることは純粋に嬉しい。嬉しいし、綺麗になるために常日頃から美容にお金も時間も費やしている。努力したぶんだけきちんと成果がでて、それをしっかりと他者からの「可愛い」に還元しているのには達成感と、いつも一抹の虚しさがあった。
「自己PR」欄に、外見ばかりに捉われていた自分に気付かされた
この虚しさはなんなのか、少し考えてみることにした。
そもそもいつから感じるようになったのか。学生の頃にはなかったはずだ。学生の時は良くも悪くも暇だったから、コスメやファッションで自分をどう着飾るのかに頭がいっぱいだった。
じゃあ社会人になってから? 新卒で入社した会社はいわゆるアパレル業界で、そこでも髪やネイル等の身なりに気を使っていた。そしてその時はまだ、容姿を褒められることに対して100%の嬉しい気持ちでいたと思う。
……ああ、そうだ。私が容姿を褒められることに対して少しの虚しさを感じるようになったのは、そのすぐ後。アパレルの会社を辞めて、業種を変えて転職活動を始めたあの頃からだ。
どの企業のエントリーシートを書くにしてもある『自己PR』や『長所』の欄。私には何もなかったのだ。自分で自分の強みと思える部分が。
可愛いと外見だけをちやほやと褒められて、外見だけに気を使っていた私の中身は空っぽだった。
「可愛い」と言われるたびに浮かび上がってくる罪悪感
それに気づいてしまってから、外見を褒められることに対して喜びと共に罪悪感に近い感情が泡沫のようにぷかぷか浮かぶようになってしまった。
『可愛い』以外に何もないということに他者に気づかれたくない。そして私はその事実を心のどこかでまだ許容しきれていなくて、自分自身認めたくない。けれどそんな感情に反して私は美容院やエステに足繁く通って、『可愛い』に執着している。
こう文字にして改めて自分で読み返してみると、なんて愚かしいんだろう。理解しているのに、私は今日も自分の容姿以外の長所がわからない。
好きな人に「美人」と言われても虚しさを感じないために
つい先日、好きな人とご飯に行った。
食事の最中で、彼ははにかみながら私にこう言った。
「前から思っていたけれど、すごく美人だよね」と。
私は嬉しかった。単純に好きな人にそう言ってもらえる喜びと、ああ私の『可愛い』はちゃんと彼にも通ずるものだったんだという安心感。
そしてそこにぷかりと浮かんで、ぱちんと弾けた虚しさ。彼は、私が『可愛い』以外になにもないと知ったらどう思うのだろう。どうしよう。
ああ、私も生きてるだけで可愛いと言われる黒柴になりたいなあ。黒柴のくーちゃんは、ただ息をするだけで可愛くて、それが許されるのに。
私はそうはいかない。これから歳をとっていくに従って、外見の『可愛い』だけじゃ通用しなくなることを知っている。きちんと芯の通った、内面から美しい人にならなければ。
でも、どうやって?
そんなぐるぐるとまわる感情に見ないふりをして、私は彼に「ありがとう」と返した。