多くない出社日に続くと気が滅入る。なぜこんなにも生きづらい
残業帰りの午後9時、クタクタの私につきまとったのは異様な男だった。
11月も後半に入ったというのにまるで真夏の軽装で、無視しているのに馴れ馴れしい。
家も近いのでやむを得ず方向転換し、逆方向へ足早に逃げる。
姿が見えなくなって一息ついたところに「ちょっと待ってよ」と例の男が立ちはだかった。
こんなことでと迷ったものの、万が一はある、近くの交番へと駆け込んだ。
事情聴取されながら疲れと苛立ちで膝が震えた。
その翌日のちょうど同じ時分、土下座した酔っ払いに帰り道を塞がれた。恐らく大学生で、側にいた仲間たちはニヤついて囃し立てる。避けて無事に通り過ぎることができたけれど、せっかくの金曜の夜が拭いきれない嫌悪感で台無しになった。
歩いていたのは深夜でもなく、繁華街でもない。着ていたのは通勤用のスーツだ。
よくあることだと自分に言い聞かせても、多くはない出社日に立て続けだと気が滅入る。
女のからだというだけで、なぜこんなにも生きづらいのだろう。
正確な情報を得た今。知らなかった自分が恋しく、できれば戻りたい
性に潔癖な家庭で育った。
当然のごとく性的な話題はタブーで、日曜洋画劇場のセクシーシーンは両親の合図で目と耳を塞ぐように訓練されていたくらい。
しかし小学校高学年くらいになると性に関するウワサ話が増えてきて、否が応でも意識するようになる。大人への反発心もあって、今思い出すと赤面モノのしょうもない軽口を叩いていた。現実味がないうちは日常にちょっとした刺激をくれる冗談だった。
当事者になるまで本当の意味での男女の営みが分からなかったのは、保健体育に不真面目だったことが原因か。性に関する記述を音読するよう指示されたとき、学級委員だった私は教師に反抗した。性体験を語る早熟な同級生に、合図なくとも目を逸らし耳を覆った。
正確な情報を得た今、知らなかった自分が恋しくできれば戻りたいとも思う。
私は女のからだへの関心という、俗にいう男の本能を、30年近く生きても真正面から向き合うことができない。
からだで触れ合うことが、男と女を近づけてくれるというの?
一方で、タイトな出立ちも好む自分がいる。
ボディラインの丸みと曲線をはっきりさせることで、女を自覚できてうれし恥ずかし。
そしてやはり、好きな人には私のからだを意識してほしい。
特別に彼だけには、私が感じているように触れたいと思ってほしい。
私には「男」というものが分からない。うわべだけ見てんじゃないよ
からだの距離を縮めたいと望む時点で、自分の矛盾に頭を抱えるのだけれど、ただ情愛だけが厭わしい男の性を受け入れられるようにするのかもしれない。不思議なものだ。
しつこいナンパ男もそう思ってくれる子を真剣に探したほうがいい。
いろんな愛の形があって、そこに形式的な性別も法律もまったく関係ない。
けれど「男」と「女」という便宜的な区分が存在する限り、認めざるを得ない。
だからあえてその二分にこだわると、今の私には「男」というものが分からない。
他方、自分を含めて「女」にも謎が多し。
ただ一つ明らかなのは、すべては話し合いで解決できるということだ。
建設的な妥協案は見つかると本気で信じている。
うわべだけ見てんじゃないよ。欲望には応えられません、あんたにゃもったいない。脳みそだってぎちぎちだよ。
平成だろうが令和だろうが選ばれたこの人生、勝手に生きるから構わないでね。
でもできれば教えてほしいの、男も女も幸せな道を。