「男の子なんだから泣いちゃだめ」「女の子はおしとやかにしないと」といった類の言葉は誰しも一度は言われたことがあるのではないだろうか。このような「○○ならこうあるべき」という社会からの強烈な視線を感じることは、現代においてもまだまだある。
男女の違いのみならず、見た目や体型、年齢によっても上記の「あるべき論」は使われるが、私はこの「あるべき論」があまり好きではない。
どうあるかはその人個人の性格や特性、考え方によるものだと思うからだ。それを見た目等の外見によって振る舞いをカテゴライズされるのは、たまったもんじゃない。
職場の「あるべき論」。若い社員は元気で明るくあるべきなのか
私自身が言われた「あるべき論」で、印象に残っている出来事がある。
それは前職での出来事だ。他部署の上司から『この部署ではあなたが1番若いんだから、誰よりも明るく元気でいなくちゃ!』と言われたのだ。
年少者に明るさや元気の良さを求める心象はわからなくもない。しかし、だ。一応「はい」とは返答したものの、こう言われた当時の私は強い違和感と不快感を覚えた。
なぜ「1番若いこと=1番明るく元気良くあるべき」という図式になるのだろうか。明るさも元気の良さも、年齢とは関係ないと思うのだけど。
身体的な元気さは確かに若い方が上かもしれないが、このとき言われた言葉のニュアンス的には気持ちの面での元気さのことを言っていると思われる。それなら尚更、年齢で「若い人は誰よりも元気であるべき」と決めてほしくない。元気なときと落ち込んでいるとき等、年齢に関係なく気持ちは移ろうものだろう。
まして明るさなんて、その人個人の性格や特性に由来する部分だと思うから、それこそ年齢とは関係ない。
求められる振る舞いと視線に、人格を否定されたような気持ちに
内向的な私は昔から「おとなしい」「落ち着いている」と言われることが多かった。だからといって挨拶をしない訳でも、常に仏頂面だった訳でもない。仕事の時は特に意識的に挨拶していたが、それでも上司から「若いんだからこうあるべき」と言われ、自分の人格を否定されたような気持ちになった。そして「もう少し歳をとっていればこんなことは言われなかったのだろうか?」と考えると、若い身体であることが少し悔しかった。
確かに、求められる振る舞いが出来なかった私にも非があったとは思う。社会人生活の中で若手が求められるのは往々にして「明るさ」であり「元気の良さ」なのだから。ただ、こうした社会からの視線は、お互いを雁字搦めにする言葉でもあると思う。
こうした「あるべき論」はカテゴライズするには便利な見方だが、そこから外れると『期待外れ』の烙印を押される。烙印を押される側は自分に対する自信を無くし、押す側は勝手に抱いた役割を満たされずに裏切られたと感じる。最初から一人ひとりを独立した個として見れば、不必要に傷付くことはお互いに減るだろう。
こうあるべきと囚われず、他人へも自分にも色眼鏡をかけず見ていたい
もうすぐ20代も終わる。かつて私が言われた言葉を向けられることも、この先無くなっていくだろう。やっと私の性質と年齢が追いつくと思うと、案外歳をとるのも悪くないと思えてくる。
私はこの先歳をとっても世間一般的な考え方の「あるべき論」に囚われずにありたいし、他の人のことも色眼鏡をかけずに見たい。
外見や年齢、性別や学歴等だけでどうあるべき人間かなんて勝手に決めないでほしい。だって私は私・あなたはあなたなのだから。その人個人の本質に目を向けることが社会全体の「あるべき」姿だと感じている。