人と目が合わせられない。
十代後半の頃、確かにそう感じていた。三十歳手前となった今は、その傾向は少なくなったが、今でも人の目を見て話すのは、苦手である。

自分の姿を見られたくない。
だから、自分も誰かを視界に入れることを避けた。
自分が誰かを認識しているということは、その誰かもまた自分を認識しているということになるから。そう思っていた。

私は凡庸な人間。自信のなさから人の視線を避けてきた。

何故そんなに誰かの視界に入ることを恐れたのか。

それは、自分に自信がないからだろう。
顔立ちもぱっとしない、体型も幼少期から小太り気味。まつ毛はしっかり生えていたが、それはつまり毛深さと同義で、人は中身だというけれど、そうあるべきだと思うけれど、それは深く付き合わなければ理解されないのもわかっている。

そもそも、容貌で関係性を切られてしまっては、内面を知ってもらうことすらできない。
母親からはかわいいと言われてきた。父親からも言葉は少ないが、愛されてきた。それはわかる。
だけど、それは身内だからこその話であり、私は他人から見たら優れた容姿でないことは、向けられる視線から、何となくわかってしまった。

容貌以外に優れた点があれば、そこで自身をつけることができたのかもしれない。ただ、残念なことに私は凡庸な人間でしかない。そう実感するのに、時間はかからなかった。

化粧や服で取り繕うだけでは、自分を好きになれなかった

私はそんなだけれど、世の中にはいろんな人がいる。
自信ありげに歩く人、幸せそうに連れだって歩く人。そういう人と目を合わせてしまうと、何だか自分が惨めで仕方がなかった。

十代の頃は、ただただ俯くことしかできなかった。街を歩く時も、人から逃げるように避けるようにしていた。
人を見てしまうと、なんであんなに輝けるんだろう。あんなに平然と歩けるんだろうと思ってしまうから。

だから私は、外見を取り繕うようにした。
少し値が張っても、自分が良く見える化粧、洋服を選ぶようにした。
体毛が見えるのではないかと己の体を恥じて、夏であっても七分丈を着るようにしていた。化粧、服は醜い自分を封じ込めるための防具だった。それは外面のこと、内面のことも含んでいた。

それでも、どうしても、うまくいかない日はあって、そんなときは人からの視線を強く感じて、自分が惨めになった。この姿を見て、人はどう思うのだろうか。こんな格好で出歩いて、恥ずかしくないのだろうかと思われているのかもしれない。
そんな恐怖に囚われて、俯くしかなかった。そんな自分が情けなくて、自分のことは好きじゃなかった。

視線の正体は「思い込み」だという気づき。優しい視線だってあるはず。

社会人になってから、脱毛サロンに通った。痩身エステにも手を出し、多少ではあるが小太りは改善された。

するとどうしたことか、あの頃のような視線を感じることはかなり少なくなった。
いまいちな服装、メイクだったとしても、気になるのは一瞬だけ。少なくとも、視線が気になって仕方がないと言う人間が、いくら仕事帰りで疲れているからと言って、電車の中で爆睡したりするだろうか。

視線の正体に、本当は気がついていた。
私を苛む視線は、私自身が作り出したものに他ならない。

街を歩くその時、誰かに見られているのかもしれない。ただ、それは視界に入っただけで、大多数のうちの一人としてしか認識していないはずだ。
現に私も自信に満ち溢れた人を見て、その時は印象に残ったとしても、次の日には忘れてしまう。
あれだけ人と目が合わせられないと思っていたのに、そんな程度のもである。
きっと否定的に思われているに違いないという私の思い込みが、視線の正体だ。

ただ、もし、私の服装、メイクを見て、好意的な視線を送ってくれる人がいるのならば、それはとても喜ばしいことだ。
そういう意味では鈍感な私は、きっとその優しい視線には気がつくことはできないのだろうけれど。