「色白だから、足の毛、すごい目立ってるよ。剃らないの?」
プールサイドで三角座りをしていたら、隣にいたクラスメイトの女の子が、わたしの足をまじまじと見て言った。それは、小学校高学年のプール開きの日だった。

これって、あっちゃいけないものなの?初めて気にするようになった

「えっ」
それまで考えてもみなかったわたしは、かなり衝撃を受けた。自分の足を見てみれば、男の人ほどではないけれど、確かにすねや太ももに黒くて2cmくらいの毛が生えている。これって、あっちゃいけないもの?そのとき、初めてそう思った。

それからわたしは、世間ではムダ毛と呼ばれる毛(髪、眉、まつげ以外の毛)を気にするようになった。最初は、ドラッグストアで除毛用のパフを買ってもらった。怪我をしないのがよかったが、脇など凹凸が激しいところは向かない。カミソリで剃ったり、除毛クリームを試してみたものの肌が荒れてやめたり、脱毛器を買って抜いてみたり、できる限りのことはなんでもやった。最近は、光脱毛器に手を出そうとしている。そういうわけで、わたしはどんどんムダ毛をなくすための迷路に入ってしまった。今はカミソリで剃るようにしているが、夏場などムダ毛を処理する日が毎日続くと「わたしはこんなことをするために毎日過ごしているのかな……」なんて、死んだ魚の目で思ってしまうことがある。剃れば剃るほど、毛は濃く見えてしまうのにやめられない。

いろんなことができなくなった。人の視線が気になってしまう

ムダ毛が気になってから、いろいろなことができなくなった気がする。人の視線が気になってしまうのだ。ムダ毛をそのままにしていると、「だらしない人」だとか「不潔な人」だとか思われそうで怖い。
まず、袖のない服が着られなくなった。生きている以上、リアルタイムで毛は生えていくし、伸びていく。朝家を出るときはよくても、夕方になると毛が見えてしまうのだ。だから、お気に入りのノースリーブのワンピースが単体では着られない。私の場合、いつも薄いカーディガンを羽織るのは、そのためだ。どれだけ暑くても脱げない。うっすらでも腋毛が生えてきているかもしれないから。半袖でいるのも、腕とそこに生えている毛が見えているような気がして、好きではない。

事前に準備をしないといけないため、スカートでいることが減った。ムダ毛の処理が面倒なので、リラックスモードのときは決まってパンツスタイルだ。もっとスカートを気軽にはきたいのに。
ムダ毛はわたしの心にある足枷のひとつだった。

先日、貝印の広告が話題になった。
「ムダかどうかは、自分で決める。」というコピーだった。わたしはSNS上でそれを見て、過去に母親に聞いた話を思い出した。

自分のためのはずなのに、ちっとも楽しくないのはどうしてだろう

わたしが4歳の頃から、わたしにはムダ毛は生えていたらしい。すねに視認できるムダ毛を見て、4歳のわたしは「お父さんとお揃い」だと喜んでいたという。母親は幼いわたしの言葉を聞いて困惑したというが、わたしは当時の心境をよく覚えていないため、その話を聞かされたときは子供の感性は面白いと思った程度だった。でも、自分が納得するなら、それを選んでもいいわけだ。今のわたしは、着せ替え人形や漫画のキャラクターのようなつるりとした肌に憧れているから、今夜もカミソリを握ることを選ぶけれど。

ボディーソープをたっぷりと脚につけながら、わたしはときどき考える。カミソリを握って、ムダ毛を剃りながら。わたしは誰のためにこうしているのだろう。それはわたしのはずなのに、ちっとも楽しくないのはどうしてだろう。いつか、あのときのクラスメイトの言葉も、街ですれ違う知らない人の視線も、誰の目も気にならなくなったら、わたしも自由になれるだろうか。ノースリーブのワンピースを着て、笑って街を歩けるだろうか。いつかそんな日が来ればいいとぼんやりと思う。