最近、ふと小学生のころの自分を思い出した。下着のこと。
胸が膨らみはじめて、胸のところが二重になっているキャミソールを初めてつけたときすごく恥ずかしく屈辱的に感じたことを思い出した。白いキャミソールでお世辞にもおしゃれといえなかった。母は私のことを考えて買ってくれたはずだけどどうしても嫌だった。その後、ブラトップのようなカップ付きのものに「進化」したときはまだましだった。屈辱的に感じたのはきっとテレビや漫画などのメディアで下ネタのように下品なものとして目に映るブラジャーや胸が自分である、と気づいてしまった瞬間だったからではないかと思う。
年を重ねるごとに変わるブラへの想い。私は今、新たな壁を感じている
それから14歳ではじめてブラジャーをつけたときは少し恥ずかしくあまり人には見られたくなかった。次第に高校生くらいになると周りにも公にブラジャーや生理の話などディープなところまでできる友だちが増えてからは、それら女性特有の要素は当たり前に思えると同時にそれまで恥ずかしいものだった生理や胸がむしろ逆に女友達との結束を強めるある種の共通項となっていった。
現在20歳となった私にとって下着は戦闘服のようなものだ。休みの日や体調の悪い日、リラックスしたい日は締め付けの少ないブラトップで過ごすのが好きだ。今や毎朝起きてお気に入りの下着をつければ、学校に行き講義を受けているときも電車に乗っているときも、、、このあまりにも挑戦的な世界と戦うアイテムとなる。じぶんの気分や体調で選ぶ。だけれど今、幼い頃のブラジャーなどといった下着への恥ずかしさとさよならしたのちに再びある壁にぶち当たっている。
ときにこの世界でたったひとりだけブラを選ぶときに頭をよぎる人がいるー恋人。新しい下着を買うとき彼が喜びそうなものを選んでいる自分がいる。どんな下着が好きだろうか、ちょっとセクシーなものを買ってみようかな。つけやすさよりも見た目の美しさを優先する私。自然体の私の胸であることよりも少しボリューミーに偽って魅せたい私。このとき私は彼の目線でものを選ぶ。
私が選んだブラは、自分自身の意志なのか、はたまた彼の視線なのか
今までいろんなことを自分自身が主体となり自分自身のために選択してきた。大学入試、どのバイトをするか、どこに明日行くか、誰と居酒屋に行くか。いつのまにか他人の目を気にせず自分のやりたいことを選択することが私の美徳となっていた。だからこそブラジャーひとつ選ぶときでも誰か自分以外の人の目を気にしている自分がいることにとても嫌気がさした。いくら好きな恋人の前であろうとも、自分は自分でありたい。自分の選ぶ自分でいたいのに無意識に彼の目線を考える。そういうことなら、と逆に彼があまりそそられないであろう自然体でいられるリラックスタイプのそしてなによりも自分好みのブラジャーを反抗心で選んでみたこともある。それを彼と会うときにつけていく。いつもは褒めてくれるのに何も言わない彼。、、、あれ?全く自分がなりたい自分にはなれなかった。自分で選んだブラをつけて優越感も感じていたのになぜだろうかー彼が好きではなくても自分の好きなものを選ぼうと思っている時点で彼の視線を意識しているから!?
本来の自分との誤差を減らすため、常に自分の選択とこころを照合
それを機に最近こんなことを考えるようになった。こんなにもかたくなに他人の視線を拒む私は異常者か?頭の固いフェミニスト気取りのこざかしい女か?いや、男性優位主義、SNSでのマウンティングやステレオタイプ、利益目的で操作された市場たちにあふれるこの社会で、私が自分らしく生きていくために自分の選ぶことのできる権利を気にすることは必要であると、私は信じている。下着だけではない。洋服も、メイクも脱毛するのかしないのか、どんな仕事を選ぶのか、結婚したいのかしたくないのかしないのか、子どもをもつのかもたないのか、すべての選択を全部私が決めていいのだ。
でも自分以外の周囲の人間にどう思われるか考えたくなくても考えざるをえないときは必ずくる。それでも自分の選択で主体的に人生を生きたければブラジャーを恋人の好みに合わせて買うときモヤモヤしたこの感情を見逃してはいけないのだ。周囲の反応を意識して自分に嫌気がさすとき、体力と気力は毎度使うけれども、一息ついて自分の選択のひとつひとつに「これ、本当に私したいの?好きなの?」と自分に問いかけていく瞬間を設けることが必要だと思う。自分が選択しようとしていることと、自分のこころとをいつも照合することで本来の自分との間に生じた誤差を修正することができると最近気づいた私である。