ほめないで。ふつうがいい。それが私の幼少期に言っていた言葉。なぜか記憶にある。
まだ小さいころ、姉が私におもちゃを貸してほしい時にひどく誇張して私をほめておだててきたのが私は嫌で、ふつうだねって言って欲しかった。

小さいころから私は自分に自信がなくて、人前に出たり、目立つことが嫌で、ふつうに埋もれていたかった。
だってふつうってよくない?悪くもないし、よくもないんだよ。よすぎると目立つし、期待されるし、きっといいことないよそう思ってた。

それに自分はふつうだって思ってた。勉強も運動も容姿もそこそこでいつも運動会では親も我が子を見つけられないくらいふつうに埋もれていた。
成長していっても私はふつうになぜか憧れを持っていたし、私がふつうなんだって思って信じていた。

思春期に入り、多くのことに悩み苦しみ葛藤する日々が続いていた。私が間違っているのかな、私が変なのかな、いやでも、私は昔からふつうを目指していたし、きっとふつうだよ。おかしいのは周りだ。でも、なんでかな。そういってる自分がものすごく嫌いだった。

「変わってる」先輩に言われた言葉ですべてが腑に落ちた

その後、思春期は終わり心に安定を手に入れた矢先であったが、私は部活で孤立することになった。
この時もまた、同じ感覚をおぼえた。自分がふつうなのか、他人がふつうなのか分からなかった。
ただ一つだけ言えることは自分が嫌い。それだけだった。

ぶちは変わってんねん。

そう、この言葉がなければその時のままだったかもしれない。
大好きな先輩に言われた言葉だった。
は?え?私って変わってるの?私がふつうじゃないの?今まで周りとうまく付き合えなかったのって変わってたから?

すべてが腑に落ちていった。ふつうにとらわれていた私は初めて外にでた子犬だった。
通ってきた道をなんども嗅ぎなおして確かめて、新しい道をおぼつかないあしで歩いた。
私は変わってるんだ。ふつうじゃないんだ。そう思うことで自分が見えた気がした。
人と違うことが心地よく感じて、ふつうに埋もれたくなくて、変わってることがしたくてたまらなくなってた。

あの時、自分が求めていたふつうってのは、他人と同じであることへの安心感そのもの。
それを蹴飛ばせたとき、本当に自分になれた気がした。
そりゃふつうに埋まっていれば失敗や悲しみの少ないコンクリートを散歩できるかもしれない、自分の道を歩けば、ふつうがよかったって思うほどの荒れ地かもしれない。
でも私は信じてる。コンクリートには咲かないきれいな花がきっと荒れ地にはあるはずだって。